【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。南与力町教会の坂尾連太郎です。
過去2回の放送では、私が大学生の時に信仰告白をしたこと、そして、牧師として献身する決心をしたことをお話ししました。
私は、大学を卒業後、牧師になるために神戸改革派神学校に入学し、「神学生」となりました。私が神学生の時、ある教会で「先生」と呼ばれることがありました。私は最初、違和感を覚えました。自分はまだ先生ではない、牧師ではない、神学生だ。学生の身分である。そう思ったからです。しかし考えてみれば、教会の方々にとって神学生とは、いわば牧師の卵であり、日曜日の礼拝で説教するということにおいては、牧師のような働きをするわけです。ですから、教会の中には、神学生に対しても「先生」と敬意をもって呼んでくださる方がいたのです。
それは理解できたのですが、私自身は、最初違和感を覚えましたし、同時に「危険」も感じました。その「危険」というのは、自分がこれから「先生」と呼ばれることに慣れ、驕り高ぶってしまうのではないか、ということです。今はまだ神学生であるけれども、やがて牧師になれば、教会の中で常に「先生」と呼ばれるようになる。そうすると、自分が何か偉い者であるかのように勘違いをして、高慢になってしまうのではないか。そのように危惧したのです。そして、私は牧師になり10年になりますが、牧師には、そのような危険が常にあると思っています。
しかし、だからこそ私は、ある御言葉を心に留めてきました。それは、マタイによる福音書23章8節以下に記されたイエス・キリストの御言葉です。8節、10節にはこうあります。「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」(マタイ23:8)、「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」(マタイ23:10)牧師にとって、このイエス様の言葉を文字通り守ることは困難です。実際、教会の中で牧師は、「先生」あるいは「教師」と呼ばれているからです。それはもう慣習になっており、変えることは困難でしょう。しかし、だからこそ、牧師は特に、このイエス様の御言葉を心に留めていなければならないと思います。
イエス様は、なぜ弟子たちに、「あなたがたは『先生』や『教師』と呼ばれてはいけない」と言われたのでしょうか。その理由として、イエス様は、「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」、「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と語っておられます。教会における唯一の教師、先生は、イエス・キリストご自身です。その他の者は皆、牧師も含め、兄弟である。なぜなら皆が、天の父なる神様の子どもであり、家族だからです。そこに優劣はありません。ですからイエス様は、あなたがたは「先生」や「教師」と呼ばれてはならない、そのように呼ばれることによって、思い上がり、高ぶるようなことがあってはならない。そう教えてくださったのです。
さらにイエス様は、マタイ福音書23章11節でこう語っておられます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」一般的には、偉い人は権力を振るい、人を支配しようとします。弱い者を虐げ、虐待するということも起こります。しかし、イエス様は弟子たちに、「あなたがたの間では、一番偉い者が、皆に仕える者、皆に奉仕する者になりなさい」と言われました。なぜでしょうか。イエス様はこうおっしゃっています。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタイ23:12)
私たちの心には、多かれ少なかれ、人から尊敬されたい、重んじられたいという思いがあるのではないでしょうか。しかし、そのような思いによって、自分で自分を高く上げ、「高ぶる」ならば、神様によって打ち砕かれ、低められることになります。逆に、自分で自分を低くし、「へりくだる者」は、神様によって高く上げられるのです。私たちはそのことを心に留め、驕り高ぶることなく、神様の前にへりくだり、仕える者として生きていきたいと思います。