キリストへの時間 2024年2月25日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

久保浩文(松山教会牧師)

久保浩文(松山教会牧師)

メッセージ: 親のこころ

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。愛媛県松山市にある松山教会の久保浩文です。
 2月の第4日曜日の朝です。今朝のお目覚めはいかがでしょうか。

 今朝は、私の子どもの頃のお話をさせて頂きます。私は、香川県高松市に生まれて、大学入学時に親元を離れるまで高松市で育ちました。現在も、私の実家は高松市の東部にありますが、幼稚園の頃まで、父親の社宅に住んでいました。社宅は、高松市の中心部、近くには商店街、市役所、香川大学などがあり、今でも交通量の多い大通りに面していました。会社はタクシー会社で、社宅は会社のビルの中にありました。1階は、いつも数十台のタクシーが出入りしていました。2階は会社の事務室などがあり、さらに上の階に、社員の社宅と社長の本宅が同居していました。いつもタクシーが出入りするのを見て育った私は、「大きくなったらタクシーの運転手になる」と言っていたそうです。

 ある時、何かの拍子に社長の本宅の玄関の前に立っていたら、社長夫人に「浩ちゃん、いらっしゃい」と自宅に招き入れられ、美味しいジュースやお菓子をいただき、時間が経つのも忘れて遊んでいました。どのくらい時間が経ったでしょうか。「お母さんが心配するといけないから、そろそろ帰らないとね。」と言われ、お菓子の土産を持たされて帰宅しました。母は、私の顔を見るなり「おった!」と大声で叫び、「どこにおったんな。車にでも轢かれたかと心配して捜しよったんで。」と言われました。

 幼い私は事の次第が十分に理解出来ずにいましたが、後日母から聞いた話によると、自分が目を離したすきにいなくなったので、どこにいったんやろうかと胸が張り裂けんばかりに心配した、父親の同僚の運転手さんたちが、子どもの足で行きそうな場所、心当たりを捜して下さり、無線で連絡を取り合っていたそうです。私は、とんでもない騒ぎを起こしていたことに気が付きました。思い起こす度に、いくら子どもとはいえ、目の前の珍しいことに心惹かれて夢中になっていたことで、親を心配させたことは親不孝であったと思います。

 聖書には、こんな話が記されています。ある人の息子が、ある時、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(ルカ15:12)と言って、自分の取り分を頂きました。息子は、それを金に換えて、遠くに旅立って放蕩の限りを尽くして、全財産を使い果たしました。彼は、無一文になり、食べるにも事欠き、ある人の所に身を寄せたところ、畑で豚の世話をさせられました。彼は、空腹のあまり、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたいと思うほどでしたが、食べ物をくれる人はだれもいません。

 そこで彼は、我に返って、「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(ルカ15:17)と言って、父の下に帰る決心をします。彼は、父親にこれまでの放蕩を詫びて、「雇い人の一人にしてください」(ルカ15:19)と言おうと心に決めて帰宅します。ところが、自宅まで「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻」(ルカ15:20)しました。

 そして父親は、僕に命じて最上の着物、履物をもって来させて着せ、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15:24)と言って、息子のために宴会を催したのです。この父親は、何時息子が帰って来てもすぐに出迎えることができるように、四六時中通りに出て、待ちわびていたのでしょう。

 私たちは、神にとっては、失ってはいけない、かけがえのない大切な子ども、命です。私たちがいつの日か神を知り、信じて、神の下に立ち帰る日を、今か今かと、ずっと待ち続けておられます。そして神は、神を忘れた私たちのこれまでの様々な放蕩にも関わらず、あたかもそれが無かったかのようにして迎え入れて下さいます。神は、御自分の独り子である主イエス・キリストを、真の羊飼いとして遣わして下さって、私たちが、世の中の虚しいものに心惹かれ、人生の道を踏み外すことのないように、真の憩いのみぎわ、父なる神の下に導いて下さるのです。



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