【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。愛媛県の松山教会の久保浩文です。
2月の第1日曜日の朝です。今朝のお目覚めはいかがでしょうか。今日は暦の上では立春ですが、朝はまだ冬の寒さですので、寝ぼけまなこで布団の中でラジオの声に耳を傾けている方もおられるでしょう。
ここ数年、異常気象と言われる現象が続いています。野山の木々や花によって季節を感じるというよりも、季節外れの花が咲いたり、普段であれば大雨に見舞われない地域が、線状降水帯によって豪雨に見舞われたりしています。
前回の放送で、私の朝の日課の一つに、庭に置いてある植木の手入れをしていることを紹介しました。数年前に、ある教会員が献品して下さったハイビスカスの鉢植えの世話を、かれこれ5年程しています。初めの年は、割と小さい鉢植えでした。鉢を日当たりの良い場所、教会の2階の入り口のバルコニーに置いて、毎朝の水やりに加えて、適度に肥料をやり、害虫よけの消毒をしていました。
すると、花の咲く時期を過ぎて冬の季節を迎えても、木は枯れることなく、むしろ枝が太くなり、一回り大きな鉢に植え替えるほどになりました。年を越して少し暖かくなってきたら、枝を適当な長さに剪定します。啓蟄を迎える頃には、落とした枝から新芽が現れ、5月の初旬頃には、一気に新しい枝が伸び、6月頃には蕾を付けてくれます。枝に蕾が付き始めると、1日に数輪ずつですが、8月の終わり頃まで、年によっては9月に入っても、次々と毎朝赤い花を咲かせてくれます。
しかし昨年から、鉢を置く場所を変えなければならなくなり、一階の入り口わきのケヤキの大木の下に、鉢を移動しました。ケヤキの葉が日陰を作って、以前のように、太陽光線が眩しいばかりに照り付けることはなくなりました。その影響かどうか、成長が遅くなりました。例年であれば、新しい枝が伸びる頃になってもその兆しはなく、ようやく1か月ほど遅れて、新しい枝に若葉が付き始めました。
しかし、ハイビスカスの盛りである7月頃になっても、一向に蕾が見えません。半ば期待しつつ、半ば諦めといった心境でした。それでも、毎朝の水やりと適度な肥料やり、消毒は欠かしませんでした。9月も終わるころ、「今年はダメかもしれない」と思っていた矢先、ふと枝の中に堅い蕾を見つけました。それが順調に芽吹いて、花をつけてくれることを願いました。数日後の朝に、見事な赤い一輪の花が咲いているのを見つけました。早速、スマホで写真を撮って、家族やおもな教会員に送りました。
花が咲いた喜びと安堵とともに、主イエスが語られた「実のならないいちじくの木のたとえ」(ルカ13:6-9参照)を思い出しました。ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植え、3年待ちましたが、実を付けずにいました。普通いちじくは、3年経てば実をつけると考えられていました。そこで彼は、園丁に、実をつけないこのいちじくを切り倒すように命じました。すると園丁は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の回りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(ルカ13:8-9)と執り成しました。
主イエスは、私達をいちじくの木にたとえられました。そしてこの園丁は、主イエスご自身をあらわしています。私達は、命も、日々の必要な物も、全て神から頂いています。神は、私達が造り主である神を知り、信じ、感謝することを求めておられます。しかし私達は、すべてを与えて下さる神を忘れ、不敬虔に過ごしています。それが、実のならないいちじくのようだと言われているのです。
主イエス・キリストは、このような私達ではあっても愛して下さり、寛容と忍耐をもって、私達の心が神の方に向き直ることを、天の神の右の座にあって願い、執り成して下さっています。今、ラジオをお聴きのあなたも、この主イエスの執り成しの恵みを拒むことなく、造り主の下に立ち帰り、花を咲かせ、実をつける人生を送っていただきたいと思います。