ごきげんいかがでしょうか。草加松原教会の川杉安美です。
今は、服が破れたり穴が開いたりしたときに、継ぎを当てるということはしますでしょうか。私が小さい頃は、膝に継ぎを当ててもらったズボンを履いていました。
イエス様の話のなかに、継ぎ当てのたとえがあります。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」マルコによる福音書2章21節です。あまりに性質の違うもので一部分を取り繕っても、それでは結局全部駄目になってしまう、ということです。
何を教えるために、イエス様はこのたとえを話されたのでしょう。どうやら、古いユダヤ教の教えと、新しいイエス様の教えとを継ぎはぎでやったとしても、それでは全部駄目になる、ということのようです。イエス様を信じるなら、もう全面的に信じて従う、ということです。
日本では、子供が生まれたら神社にお参りにいき、結婚式はキリスト教式で行い、葬式は仏教でする、などと言われることがあります。宗教の教えにしても、色々な宗教のいいとこ取り、みたいなことをすることもあります。けれども、それでは結局、元も子も無いということです。
キリスト教を求めるなら一心に、ひたすら求めていく、イエス様を求めるなら、一心にひたすら求めていく、ということです。そうやってこそ初めて、イエス様の恵み、キリスト教の恵みを味わうことができるのです。イエス様は言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」マタイによる福音書7章7節