おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか。新所沢教会の牧師、長田です。
今日は、私たち人間の命ということについて改めて考えてまいります。
今週は命の話をしてまいりましたが、そもそも私たちの「命」とはなんでしょうか。生物として生きているというのは、心臓が動いているとか、脳みそが活動しているとか、そんなことが基準になることでしょう。けれども、そういう目に見え、触れることができる肉体が活動しているという意味での「命」とは、実は命の本質ではないということを、聖書は教えています。
私たちの命とは、その命の源である神様と私たちとの関係です。そして、神様は目に見えない「霊」のお方ですから、私たちの命も、その本質は、霊における命なのです。「霊」などというと、確かめることのできないインチキじみたものではないかと、疑いたくなります。けれども聖書の「霊」は、そんな正体不明な確かめようのない、気の持ちように過ぎない霊とは違います。
霊である神様は、神の言葉である救い主イエス様において、私たちに働きます。聖書は、「言葉は霊であり、命である」と申します。言葉は目には見えませんが、私たちが理解し、把握し、私たち自身が語ることができる客観的な出来事です。神の言葉は、単に人間の理解する所を越えて、私たちの命となるのです。
聖書を読みます。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6:63)