おはようございます。長野まきば教会の牧野信成です。
アブラハムの妻であった「サライ」は、子どもが出来なくて、その立場に苦しみましたけれども、それは、人間の思いや不安を越えて、神が答えを与えてくださることを信じる試練となりました。
後には「サラ」と改名しますけれども、その名前の男性形は、「大臣、高官」を意味しますので、その女性形である「サラー」とは、「高貴な女性」という響きがあって、エステル記では、「ペルシャの高官婦人」などとも翻訳されています。ですから、不妊の解決法として、自分の使用人である女性に夫の子どもを産ませようと図ることなどからも、サラは身分の高い女性であり、つまりは、アブラハムもただの良いおじさんではなくて、身分の高い裕福な人物だということがわかります。
神はアブラハムに、あなたの子孫を限りなく増やす、という約束をしておられましたけれども(創世記15:5参照)、子どもがいない老夫婦には、絵空事に聞こえたことでしょう。サラの計画は上手くいって、僕のハガルにイシュマエルが与えられたのですけれども(創世記16:1-4参照)、神は約束された通り(創世記17:15参照)、サラの体から、イサクを産まれさせました。
そんなことありえない、と初めサラは笑ったのですけれども(創世記18:12参照)、イサクが与えられて、今度は、「神さまは本当だった」と嬉しくて笑うことができたのでした。「イサク」という名前は、「イツハク」と発音しますが、それが意味するのは「笑う」です。神さまは、サラの苦しみを顧みて、彼女の名前ばかりでなく、疑いの笑いを、喜びの笑いに変えてくださいました(創世記21:1-6参照)。