いかがお過ごしですか。上福岡教会の杉山です。
教会の中でしかほぼ使わない言葉に、「御心」があります。神が願っておられること、望んでおられること、というのが基本的な意味です。しかし問題は、それを人間でしかない私たちがどう用いるのかです。
だいぶ昔のことですが、自分の将来について、キリスト者ではない友人と話をしていた時に、わたしが「御心なら」と言ったことに対して、「でた。都合のいい言葉だよな。」という反応が返ってきました。それは、何でも神の決めることだというのは無責任だ、このような気持ちがこもっていたのだろうと受け止めました。
確かに、選択を迫られた時、その場しのぎの言い訳や方便としてしまうのなら、それは全く無責任な使い方です。けれどもそもそも、神の御心を受け止めるのは、他でもない神を信じている人、本人です。ある人が神を信じるという場合には、自分のしたいことではなく、むしろ、神の願っていることを行うように呼びかけられているのです。
イエスは、十字架に着けられる前の夜、このように祈りました。「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)そのイエスは、弟子たちにも同じように、「御心が行われますように」(マタイ6:10)と祈ることを命じられました。
それは、まず何といっても祈る自分自身において、あるいは自分たち仲間の間で、自分の願いではなく、神の望むところが実現するようにとの祈りです。それはさらに言えば、この世界に生きる私たちをどんどん変えていってください、という祈りです。