いかがお過ごしですか。上福岡教会の杉山です。
神に名前がある、と言われたら驚かれるでしょうか。あるいはむしろ、当たり前ではないか、と思われるでしょうか。確かに、日本の神話では、「なんとかのみこと」というようなたくさんの神々の名前が登場します。
けれども、聖書では、多くの場合ただ「神」としか書いていません。けれども、そのような神に向かって、名前を聞いた人がいます。旧約聖書の出エジプト記に登場する「モーセ」という人です。その時、神はこう答えました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)。「ある」あるいは「いる」というのが、神の名なのです。
それは、とても具体的に、二つのことを示しています。一つは、時間を越えて、神はいつどんな時でも変わらず「いる」ということです。旧約聖書の詩編には、こんな言葉があります。「大地が、人の世が生みだされる前から 世々とこしえに、あなたは神。」(詩編90:2)世界がなくても、神は「あった」し、今も「ある」というのです。
それからもう一つは、このような意味で世界を超越している神が、いつでもわたしたちの側におられる、という意味です。別の詩編には、「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」(詩編139:7)という言葉があります。神に会わずに済ませることのできる場所はない、というのです。
ここにはないだろうというその所にも、神がいる、今はいないだろうと思う時にも、神はおられる。このことを、この「ある」という名前が表しているのです。