おはようございます。花見川キリスト教会の中山仰です。
ある日の礼拝で、キリストの死は呪われた死であったと聴きました。私はそんなことはない。何かの間違いだと思いましたが、ガラテヤの信徒への手紙3章13節に「木にかけられた者は皆呪われている」とはっきり書かれています。
父なる神のみ旨を行ったイエスさまは、無実のお方なのに私たちの身代わりとなって十字架の死を遂げられたのだから誉められこそすれ、どうして呪われなくてはならないのでしょうか。
私には「イエスさまは神の子だから、処女マリアから聖霊によって生まれることができた。神の子であるから、数々の奇跡を行い、力ある業を行い、命じるだけで悪霊を追い出す奇跡を行うことができた。また、神の子だから十字架にかけられても死の中から甦ることができたのだ」、という図式がありました。ところが、このガラテヤ書の言葉によると、それらの考えは一変にひっくり返されてしまうのです。なぜイエス・キリストの死は呪われたものなのか。
遂に結論に達しました。それほどまでにして無実の神の子イエスさまが私の身代わりとして十字架に架かられなければならないほど、自分の罪が深いものであるということに気が付きました。結局、それまでは自分はそれほど悪い者ではないと思い込んでいたからなのです。その時から、神と主の前に、大いなる悔い改めをもって祈るようになりました。本当にこの罪深い私を救ってくださいと心から祈る祈りを始めることができました。
自分の罪を認めることはつらいことかもしれませんが、そこを通らないと本当の救いを求める方向へ向きません。しかし、自分の罪を神の御前に心から認め、真の悔い改めをもって臨むとき、御父はイエス・キリストを通して私たちを神の子とさえ呼び、受け入れてくださいます。この幸いを教会で得ませんか。