おはようございます。花見川キリスト教会の中山仰です。
和歌や短歌に精通している方々はご存じだと思いますが、創作の仕方に本歌取りという方法があります。たとえば『古今和歌集』2・94番歌(巻2巻・春下・94番歌) 紀貫之の「三輪山を しかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ」という歌は、『万葉集』18番歌(第1巻・18番歌) 額田王の「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや」から採っています。いわば本歌を引用して意味を換えずに、また味わい深く読み替えています。
たとえば「義」という言葉があります。漢字の成り立ちによると、義とは威儀に関係していて、威儀を正すという作法にかなった立ち振る舞いをいうそうです。神に犠牲をささげる方法は中国でも用いられていました。それで羊を含む漢字の例として吉祥寺の祥の字、善悪の善の字などがあります。このように義という字は、神への供え物が「くっきりとかどばって美しく揃っていること」をいうそうです。
となると、聖書の義の概念と、漢字の義には偶然にしろ思わぬ結び付きがあることになります。古い中国の漢字に新しい命を吹き込んだ解釈といってもよいかもしれません。我の上の羊によって神の前に威儀を正すことができるからです。神の御前に義とされて、正しい者として出ることができるという真理だからです。
そして聖書によると、あくまでも義は子羊によってのみ与えられるものであって、人間の側の業績や功や犠牲によるものではないことが表明されています。罪ある我の上に子羊が犠牲となってくれたがゆえに罪が覆われ、神の目からは子羊としての御子イエス・キリストのみが見えるということになります。
これが神の義による救いのメッセージです。