おはようございます。花見川キリスト教会の中山仰です。
韓国から来られた講師の講義を聞いたことがありました。その講師は戦中の日本軍による日本語教育を受けていたようで、やり取りの中でそれまで忘れていた日本語を突然思い出したようです。それからは通訳が訳す度に「それ違う」と遮断し、遂には滔々と日本語で講義をし出した興味深い体験を目にしたことがあります。
説教者は新約聖書のギリシャ語を学んで話しますが、聖書を訳すとき、「それ違う」と主なる神から言われないように、説教の準備は慎重に訳さなければなりません。しかし余程の間違いでなければ心配しなくてよいようです。
なぜなら、聖書を注釈するとき、自分だけで考えていないからです。昔から多くの説教者や注釈者が研究してきたものをベースにして、組み立てて説教するからです。そこには、歴史の中をくぐってきた聖書解釈という土台があります。何よりも歴代の説教者たちは、祈りの内に、神のお遣わしくださる聖霊によって導かれるからです。そうでなければ、キリストの教会は正しく受け継がれ、健全な成長はなされません。いつの時代にもふらふらと揺れ動くような聖書解釈では、教会は成り立ちません。
事実、聖書自身がそれについて語っています。使徒パウロは聖霊の力による宣教について、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。」(Tテサロニケ1:5)と言っています。
またコロサイの信徒への手紙には、「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」(コロサイ1:25)とあり、時が良くても悪くても語り続ける勇気が与えられます。