おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか。新所沢教会の牧師、長田です。
今週は、私たち人間の信仰の自由ということについて、聖書がどんなふうに教えているか、確かめて参りたいと思っています。
現代社会は、人間にとって自由とはとても大切なものである、という共通の理解を持っています。正当な理由なく自由を制限されることは、あってはならない良くないことです。そう考えますと、キリスト教を含め、宗教というものは、「あれをしてはいけない」、「これをしなければいけない」と様々な制限を加えてくる良くないものだ、と考える方が居られるのも、わからなくはありません。
けれども、そこには一つ大きな誤解があるのです。というのも、そんなふうに「自分が考えるままに実行するのが良い事だ」と考える前提には、私たちは、自分が正しい判断をしていて、良いことを実現できる、と思っているのです。けれども、それがそもそも誤解なのです。私たちは、良いことを実現する力を持ってはいません。その点では、まるで無力な子どもと同じなのです。自分が子どものように無力であることを認めること、そこから初めて、私たちは何かを生み出す自由を得る事ができるのです。
聖書を読みます。「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:15)