おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
聖書を読んでいると、神を人間的な表現で描く箇所が何度も出てきます。例えば、取って食べてはならないと神から命じられた禁断の木の実を食べて、逃げ隠れするアダムに対して、神は、「どこにいるのか」と呼びかけます。何でもご存じであるはずの神であれば、どんなにアダムが隠れても、最初から居場所はご存じのはずです。
考えてもみれば、「どこにいるのか」という質問は、意味深長な含みがあります。ただ単に居場所を尋ねているようにも聞こえますが、聞きようによっては、アダムが今、神とどういう関係にあるのかを尋ねているようにも聞こえます。禁断の木の実を食べるちょっと前までは、神を避けることなどなかったのに、今その関係はどうなっているのか、と尋ねているようにも聞こえます。
実は、この場面を読み進めていくと、神はアダムに質問はしますが、アダムの答えにずっと耳を傾けています。まるで、いつ本当のことを白状するのか、ずっと忍耐して待っているかのようです。この神の忍耐と寛容に対して、どう応答するべきなのか、実は、今も一人ひとりに問われているような気がします。
きょうのみ言葉「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」創世記3章8節9節