いかがお過ごしですか。上福岡教会の杉山です。
聖書には、こんな言葉があります。「その十字架の血によって平和を打ち立て…万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:20)ここでいう「御自分」とは、神のことです。「御子」とは、イエスのことです。「その十字架」とは、イエスの十字架のことです。ではいったい、十字架は、平和とどんな関係があるのでしょうか。
今も、世界の様々なところで行われている戦の根本的な原因は、不当なことをされたという怒りと恨みです。そして、私たちは、この恨みを手放せません。なぜでしょうか。それは、お互いに自分が被害者であり、正しいと感じているからです。さらに私たちは、この悲惨な状況を神はなぜ見過ごすのか、と神へ怒りを向けます。そして、宗教こそが戦のもとではないか、と非難します。
ところで、戦争を描いた映画や小説には、「トーチカ」というものが出てくることがあります。敵の弾から身を守るために作られます。その壁は、厚いコンクリートで塗り固められています。大きな砲弾も、これを砕けません。しかし、今お話したいのは、実は、私たちの心の中にも、頑丈なトーチカがあるのではないかということです。そのトーチカの材料こそ、怒りと恨みです。不当なことをされたという苦い記憶です。
しかし、そこで聖書は、この怒りを全部受け止める人が現れた、と知らせています。私たちの怒りを受け止めるのは、イエスです。私たちの怒りを受け止めたしるしが、「十字架の血」です。聖書は、私たち一人一人のために、イエスの血が注がれたことを示しています。