メッセージ: 主の道を整えよ(マルコ1:1-8)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
主イエス・キリストが公の活動を開始する前に、洗礼者ヨハネがメシアの道を整えていました。この洗礼者ヨハネは、ルカによる福音書によればイエス・キリストよりも6か月先に生まれ、母親同士が親戚関係にありました(ルカ1:36)。
きょうはこの洗礼者ヨハネの活動を顧みながら、当時の人々がメシアを迎える心の備えをしたように、待降節を過ごすわたしたちもまた、救い主を迎える心について聖書からご一緒に考えたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マルコによる福音書1章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネの登場から福音書を書き始めます。その時、マルコ福音書は洗礼者ヨハネの活動を預言者イザヤが語った預言と結びつけて紹介しています。
かつてイスラエルの民は自分たちの罪のためにバビロニアに滅ぼされ、その多くの者たちがバビロンに連れていかれました。預言者イザヤの預言はそのバビロン捕囚から解放される希望をイスラエルの民に語り聞かせた預言でした。しかし、その預言の言葉は、ただバビロン捕囚からの解放を預言しただけではなく、罪の悲惨さに苦しむ人間の解放によって究極的に成就します。新約聖書はそのようにイザヤの預言を理解し、洗礼者ヨハネの登場を約束のメシアの道を整える人物として紹介します。
このヨハネによって道が備えられるイエス・キリストは、マルコによる福音書の中で、ご自分が遣わされた目的についてこう語っています。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)。
また、別の個所ではこうも語っておられます。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)
つまり、イエス・キリストこそアダムとエバの堕落以来、人間を苦しめてきた罪の問題をご自分の命を献げて解決してくださるお方として遣わされてきたということです。
このイエス・キリストに先だって、洗礼者ヨハネはその道を備えるために神から遣わされてきました。
洗礼者ヨハネの活動の中心は悔い改めのしるしとして洗礼を授けることでした。やがて登場するメシアを迎えるにあたって、洗礼者ヨハネが最も大切なこととして人々に伝えたことは、心からの真摯な悔い改めでした。
洗礼者ヨハネは、自分たちをアブラハムの子孫であり、選ばれた国民であると信じて、真剣に罪の問題に目を向けようとしない人々には厳しい非難の言葉を浴びせました。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:7-9)
洗礼者ヨハネはこのように厳しい言葉で悔い改めを人々に迫りましたが、罪についての自覚を促す点では、とても具体的な人でした。群衆に対しては「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と語ります。徴税人に対しては「規定以上のものは取り立てるな」と命じます。兵士に対しては「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と語ります。
それぞれの置かれている自分の立場の中で、貪欲の罪が、あるいは盗みの罪が、あるいは人の命をおろそかにする罪が、どんな形で現れているのか、そのことに目を向け、心を向けて考えさせています。
罪からの救いのために遣わされてきた主イエス・キリストをお迎えするに当たって、この作業がとても大切です。罪は決して抽象的な概念ではありません。私たちの思いの中に、あるいは言葉の中に、あるいは行動の中に、具体的な形を取って現れます、その一つ一つに気が付くことが大切です。そうでなければ、救いの必要性についてもあいまいになってしまうからです。
そういう意味でメシアを迎える人々に洗礼者ヨハネは具体的な罪の悔い改めを厳しく求めました。
洗礼者ヨハネの活動の場所が、ヨルダン川であったというのも象徴的な意味を持っています。水による洗礼ということであれば、ガリラヤ湖の湖畔でも、井戸端でもどこででも良かったはずです。しかし、ヨルダン川はイスラエル民族にとって特別な意味のある場所でした。というのはモーセに率いられてエジプトを脱出した民が、約束の地カナンに入ったのは、このヨルダン川を渡ってでした。しかも、すべての民が約束の地に入れたわけではありませんでした。主の御手に信頼し続けることを忘れて、罪を真剣に悔い改めることがない者たちは、このヨルダン川を超えることが許されませんでした。
洗礼者ヨハネはあたかもその時代にさかのぼって、約束の地に入るための備えをさせているようです。
洗礼者ヨハネの活動は、人々の心を悔い改めへと導き、メシアを必要としている自分たちに気が付かせることがその中心でしたが、そればかりではありません。
人々の心を悔い改めへと導くと同時に、その心をやがて登場する救い主メシアへと向かわせることも大切な働きでした。
マルコによる福音書は、ユダヤの全地方とエルサレムの住民が皆ヨハネのもとにやってきた様子を記しています。そうなると、洗礼者ヨハネ自身が救い主のように誤解され、崇め奉られる危険があります。
それに対して、洗礼者ヨハネは徹底して、自分の後からおいでになるお方について語り、そのお方に人々の心を向けさせています。
待降節を過ごす私たちもまた、救い主イエス・キリストに目を向け、具体的な自分の罪を思い起こして、心から悔い改めてクリスマスを迎えることができるように、心の備えをいたしましょう。