聖書を開こう 2023年12月7日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  目を覚まして待つ(マルコ13:24-37)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の暦では、クリスマスまでの四つの日曜日をアドベントの期間として過ごします。アドベントとはラテン語の「やって来る」「来臨する」という意味の言葉で、日本語ではアドベントを「待降節」と翻訳しています。

 主イエス・キリストはまだ地上におられるときに、ご自分が再びやってこられることを弟子たちにお語りになりました。それで、アドベントの期間にはただイエス・キリストの降誕を覚えるばかりではなく、やがて来て下さる再臨のキリストを覚えて過ごす期間ともなりました。

 きょう取り上げようとしている聖書の個所は、その再臨のキリストを迎える弟子たちの心構えについてお語りになる主イエス・キリストの言葉が記された箇所です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マルコによる福音書13章24節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 今お読みした個所は、マルコによる福音書13章の後半からでした。13章全体はしばしば「小さな黙示録」「小黙示録」とも呼ばれている個所です。そこには世の終わりの日に起こる出来事や、再臨の主を迎える心構えについて記されています。

 このような話を主イエスがなさったきっかけは、弟子たちの質問にありました。ちょうど過越の祭りのときにイエス・キリストと共に弟子たちがエルサレムを訪れたときのことです。そして、それはイエス・キリストが弟子たちと過ごす最後の時ともなりました。このあとイエス・キリストは十字架にお掛になったからです。

 そうとは知らない弟子の一人が、お祭り気分でにぎわうエルサレムの神殿を見て、興奮のあまり思わずこう言いました。

 「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

 この弟子の発言に対して主イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃいました。つまり、弟子たちが感動して見ていた神殿がやがては崩壊してしまうことを予告なさったのです。

 そこで何人かの弟子たちがイエス・キリストに尋ねてこう言いました。

 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

 この質問に答えたのがマルコによる福音書13章に記されているイエス・キリストの言葉です。

 実際にエルサレムの神殿がローマ軍によって崩壊してしまったのは、西暦70年のことですが、イエス・キリストの言葉はただそのことだけを予告した言葉ではありません。世の終わりと救いの完成に向かう一連の出来事を念頭にお語りになっています。

 それらの言葉の中で、今日特に覚えたいのは、世の終わりの時にやがて来て下さる主イエス・キリストを迎える心の備えについてです。

 イエス・キリストはご自分が再び来ること、そしてご自分を信じる者たちを四方から集めることを約束なさっています。そして、その日について、一方ではいちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かるように、キリストがお語りになりしるしを見て、その日が近づいたことを悟るようにとお命じになっています。

 このことから、時期や時代について、研ぎ澄まされた感性を持つことの大切さを教えられます。ペトロはその手紙の中で主の約束を軽んじる者たちが語る言葉をこう記しています。

 「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」(2ペテロ3:4)

 「何一つ変わらないではないか」と鈍感になるのではなく、終末へと向かう時代の変化にいつも敏感でいることが大切です。

 けれども、そのことは日常生活を放棄して、世の終わりのしるしが現れてはいないか、そのことばかりに気をとられてしまう生き方ではありません。

 16世紀の宗教改革者マルティン・ルターは「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える」と語ったそうです。研ぎ澄まされた感性をもって神の時を観察する一方で、変わることなく神を信頼して日常生活を送ることが大切なのです。

 しかし、他方でイエス・キリストは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」ともおっしゃっています。だからこそ、目を覚ましていることの重要性をイエス・キリストは強調されています。

 目を覚ましているとは、文字通り寝ないでいることではありません。いつ主イエスが来られてもよいように、神の御心にかなう生き方をしていることです。それはただ単に良いことをして生きるという意味ではありません。この地上での生涯は、罪との戦いです。時には罪の誘惑に負けてしまうこともあります。しかし、たとえそうであったとしても、神の御前にたえず罪を悔い改め、主イエスを信じて歩み続けることが大切です。主イエスに救いを求めて信頼する信仰をもって生きている姿こそ、主が私たちに求めておられる姿です。

 主イエス・キリストは約束通り、必ず来て下さいます。その約束に信頼し、救いの完成の時を心から待ち望みましょう。

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