メッセージ: 主こそまことの羊飼い(エゼキエル34:11-16)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の暦、教会暦の上ではアドベントから新しい年が始まります。アドベントはクリスマスより前の四つの日曜日を数えます。この世のカレンダー上の新年より少し早く新年を迎えることになります。
アドベントは、日本語で待降節と呼ばれますが、それは主イエス・キリストのご降誕を覚えて心を整える期間です。それと同時にやがて来て下さる再臨の主イエス・キリストを待ち望む思いを新たにするときでもあります。
今日取り上げようとしている聖書の個所は、教会暦の最後の日曜日に朗読される聖書個所のひとつです。神は飼う者のいない羊のように彷徨う人々を憐れみ、自らまことの羊飼いとなってくださいます。その約束がここには記されています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 エゼキエル書34章11節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
預言者エゼキエルが活躍したのは、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代でした。紀元前586年にバビロニアの王ネブカドネザル二世によってエルサレムが破壊され、多くのユダヤ人がバビロニアに捕らえられました。この出来事はバビロン捕囚として知られ、多くのユダヤ人が故国を離れ、異国で過ごす苦難の時代が始まりました。
聖書はこの出来事をただ外国による侵略とは理解せず、モーセの律法を通して示された神の御心に従わないイスラエルの民への裁きと理解しています。とりわけ、その責任はイスラエルの民を指導すべき立場にある王や祭司、貴族階級の者たちにありました。
エゼキエルはそうした指導者たちを悪しき羊飼いになぞらえて、強烈に非難しています。今日お読みした個所の少し前、エゼキエル書34章の冒頭は、そうした非難の言葉から始まっています。
「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。」
このような支配による悪徳は、どの時代のどこの国でも起こりえることです。しかし、とりわけイスラエルの指導たちが非難されるのは、彼らには神の御心がはっきりと示された律法の書があったからです。
このような指導者たちのもとでいつも一番の苦しみを味わうのは、権力の座からほど遠い弱い者たちです。
神は指導者の罪を激しく非難するばかりではありません。その目は飼う者のいない羊たち、弱く傷ついた者たちにいつも向けられています。神自らが弱い者たちの羊飼いとなってくださると、このエゼキエル書34章で力強く述べられています。
「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。」(エゼキエル34:11-12)
この言葉の中にご自分の民に対する神の深い愛が示されています。まことの羊飼いの特徴は、ただ自分の手元にいる羊を養い育てるだけではありません。迷い出た羊、散らされた羊を積極的に捜し出すところに、まことの羊飼いの特徴があります。それは時として、羊を襲おうとする猛獣を相手に命がけで戦うこともあります。
神はそのようなまことの羊飼いとして、ちりぢりになった神の民を捜し出して、あるべきところへと導き戻してくださるお方です。
私たちが迷い出し、散らされてちりぢりになっているときにも、神の愛は変わることなくご自分の民に向けられています。
エゼキエルはまた、まことの羊飼いの特徴を描いてこう述べています。
「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。」(エゼキエル34:14)
まことの羊飼いは、食べものがある牧場へと羊を導き、羊たちが安心して過ごせる場所へと連れていきます。同じように、神は私たちの必要を満たしてくださり、心から不安を取り除いてくださるお方です。
人間には様々な不安があります。それはどんなに豊かな時代になっても尽きることはありません。なぜなら、自分自身がもっとも頼りなく、儚い存在であることを知っているからです。きょうは元気でも明日はどうなるか、誰にもわかりません。きょうは平穏無事に暮らしていても、明日、どんな災難が自分に襲い掛かるか、誰も分からないからです。あまりにもそのことを心配しすぎれば、ひと時も安心して過ごすことはできません。そうかといって、刹那的な楽しみを求めて生きたとしても、それは不安な思いをただ麻痺させているだけです。
羊にとって何よりの安心は、自分のそばに羊飼いがいるということです。羊は羊飼いがどういう存在であるかを知っています。これは理屈ではありません。羊と羊飼いとの関係の中で生まれた安心感です。牧草地と牧草地の間を行き来するとき、目の前が荒れ野であったとしても、羊は羊飼いを信頼してついていきます。
神はそのようにご自分の民に対して立ち振る舞い、私たちに理屈をこえた平安を与えてくださるお方です。
エゼキエル書に描かれるまことの羊飼いの三番目の特徴は、「傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」ところにあります。
もし羊飼いが、弱った羊を次々に放置し、見捨てていったらどうでしょう。たちどころに羊は自分の羊飼いを信頼しなくなってしまうことでしょう。ここには寄り添う羊飼いの姿が描かれています。
神はこのようなまことの羊飼いである救い主を、イエス・キリストを通して示してくださいました。これからアドベントを迎える私たちですが、そのようなまことの羊飼いであるイエス・キリストを通して、平安を豊かに頂くことができますようにとお祈りいたします。