ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
旧約聖書を読んでいると、他国を武力によって征服する話が出てきます。きょう取り上げようとしている個所も正にそうです。こういう個所から、どんなことを学び取るのか、注意が必要です。この個所を根拠に、自分たちが行う侵略行為や略奪行為を正当化することはできません。
というのは、第一にイスラエル民族がカナンに定住する話は特殊な話であるということです。決して一般化してよいは話ではありません。なぜなら、そのことは神の約束と許可があって、初めて可能であったからです。創世記によれば、イスラエル民族の定住は神の確かな約束に基づいているということと、もう一つ大事な点は、この地に満ちていた悪に対する神の正義の器としてイスラエル民族の役割が与えられていたということです(創世記15:16参照)。現代では誰もそのような確かな約束と許可とを神からいただいているわけではありませんから、この話を一般化することは決してできません。誤解を恐れずに言いますが、こういう個所を現代のキリスト教会が何の疑問も抱かずに当然のこととして読んでいるわけでは決してありません。非常に特殊なケースとしてのみ理解しています。
第二に、特に新約時代に生きる神の民にとっては、この地上での領土の獲得が問題なのではありません。そうではなく神の国に入ることこそが大切な問題です。そして、「戦い」という言葉は新約時代においても使いますが、それは、血肉に対する戦いではなく霊的な戦いです(エフェソ6:12)。そういう意味で、旧約聖書のイスラエル民族の話を文字通りに自分たちの行動に適用する意味は失われています。
しかし、きょう取り上げるような戦いの個所から、学ぶべき点が何もないかというと決してそうではありません。神がどのようなお方であるのか、ということや、その神に信頼して生きるとはどういうことなのか、きょうの個所からも学ぶべき点はたくさんあります。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 申命記3章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
きょう取り上げた申命記の個所は、ヨルダン川の東側で起きた戦いを記した個所です。聖書の歴史は、しばしば神の裁きの器として、ある民族が用いられるという歴史観があります。これは自分たちの侵略行為を正当化するための都合の良い歴史観ではありません。イスラエル民族もまた神の御心から離れて罪に陥るとき、他国によって侵略を受け、それを自分たちへの神の裁きと受け止める歴史観があります。我々は転じてバシャンに至る道を上って行くと、バシャンの王オグは全軍を率いて出撃し、エドレイで我々を迎え撃とうとした。主はわたしに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその全軍、その国をあなたの手に渡した。ヘシュボンに住むアモリ人の王シホンにしたように、彼にも行いなさい。」我々の神、主はバシャンの王オグをはじめ、その全軍を我々の手に渡されたので、我々はオグを撃ち殺し、ついに一人も残さなかった。そのとき、彼のすべての町を占領し、我々が奪わなかった町は一つもなかった。奪ったのはバシャンにあるオグの王国、アルゴブ全域の60の町であった。これらはすべて高い城壁で囲まれ、かんぬきで門を固めた要害の町であるが、このほかに城壁のない村落がたくさんあった。我々はヘシュボンの王シホンにしたように、彼らを滅ぼし尽くし、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くしたが、家畜と町から分捕った物はすべて自分たちの略奪品とした。我々はそのとき、アルノン川からヘルモン山に至るヨルダン川東岸の二人のアモリ人の王の領土を手中に収めた。……ヘルモン山のことをシドンの住民はシルヨンと呼び、アモリ人はセニルと呼んでいる。……それは台地にあるすべての町、ギレアド全域、バシャンの王オグが治める町々、サルカからエドレイに至るバシャン全域を含んでいる。……バシャンの王オグは、レファイム人の唯一の生き残りであった。彼の棺は鉄で作られており、アンモンの人々のラバに保存されているが、基準のアンマで長さ9アンマ、幅4アンマもあった。……我々はそのとき、この地域を占領したが、わたしはアルノン川沿いにあるアロエルからギレアドの山地の半分、およびそこにある町々をルベン人とガド人に与えた。