聖書を開こう 2023年10月19日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  執りなすモーセ(出エジプト32:7-14)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会で献げる祈りには、いくつかの要素があります。例えば、神への賛美、感謝、罪の告白、信仰の告白、自分自身の願い、執り成し、などなどです。

 きょうはモーセが模範を示した執り成しの祈りからご一緒に学びたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記32章7節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 今日取り上げたこの個所には、背景があります。それは神から教えを頂くためにシナイ山に登ったモーセが、イスラエルの民のもとに中々戻って来なかったということです。ここにイスラエルの民の不安と動揺がありました。

 今までもモーセはシナイ山に登って、神からの教えを受けては、それを民たちに語り聞かせていました。しかし、今度は40日40夜にわたってシナイ山に登ったままモーセは戻って来ません。モーセの帰りを待ちわびるイスラエルの人々にとっては、生きているのか死んでしまったのか、生死の分からない存在になってしまいました。

 不安に耐えかねたイスラエルの民はモーセの兄弟アロンに向かってこう言います。

 「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(出エジプト32:1)

 ここで「神々」と翻訳されていますが、「エローヒーム」という単語は、形は複数形ですが、文脈によって「神」と訳されたり「神々」と訳されたりします。ここでは、民の要望に応えてアロンが1匹の若い雄牛の鋳像をつくりましたから、複数の神々ではなくひとつの神と理解したほうがよさそうです。少なくとも、アロンは民の言葉をそう理解したはずです。

 今まではモーセが神の言葉を取り次いで、民を進むべき道へと導いていましたが、モーセの姿が見えなくなって不安を覚えた民は、直接自分たちに先だって進む神を目に言える形で欲しいと望んだのでしょう。

 アロンもまた民の要望に応えて造り上げた若い雄牛の鋳像を指して「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神だ」と大胆に宣言しています。

 少なくともアロンの意識からすれば、別の神を作ったというよりは、エジプトからイスラエルを導き出し、これからも民に先だって進む神を、このような具体的なイメージに仕上げたということでしょう。

 十戒の第一戒で禁じられている、主なる神の他に何ものをも神としてはならない、という教えには反してはいないと、アロンは思っていたことでしょう。しかし、たとえそうであったとしても、神を形ある偶像にして礼拝することは十戒の第二戒に違犯していますから、神の御前に言い逃れることはできません。

 神は民とアロンのとった行動に対して激しい怒りを示されます。その怒りは、彼らを滅ぼし尽くしてしまうほど激しい怒りでした。神は民の行動を「堕落」と呼び(出エジプト32:7)、「実にかたくなな民」と評しています(出エジプト記32:9)。

 ここでは慈愛に満ちた神とは、異なる姿で神が描かれています。確かに神は慈愛に満ちたお方です。決して理不尽な怒りを人にお示しになるようなお方ではありません。しかし、その一方で罪を嫌い、正義を求める正しいお方として、ご自分の立場を一歩も譲らない厳格なお方でもあられます。そういうお方に対する畏れの念が欠如するときに、イスラエルの民のような堕落と心の頑なさが生じます。それはイスラエルの民だけが陥る過ちではなく、すべての信仰者にとっても起こりうることです。

 モーセは神と民との間に入って執り成します。恐れをなした民がモーセに仲介を頼んだわけではありません。自発的にモーセは立ち上がります。怒りに燃える神の御前に立ってもの申すと言うことは、たとえ自分が同じ罪を犯していないとしても、恐るべきことです。そうかといって、民をここで見捨てて自分だけが助かるということもモーセにはできませんでした。自分もまた罪人の一人として認識しているモーセにとっては、自分を裁き主の立場に置くことなどできるはずもありません。かつて若いころのモーセは、自分の思い上がりでエジプト人を殺害する罪を犯しました(出エジプト2:11-12)。それで正義が実現され、世の中が変わったわけではありません。そんな罪を犯しながらも神に赦され、指導者として立てられている自分を思うと、決して他人を軽々しく裁く立場になど身を置けるはずもありません。

 見方を変えるなら、これは神がモーセに与えた試練とも言えるでしょう。モーセは正にこのことを通して、神とはいかなるお方のか、自分の信仰が試されているからです。神を罪の審判者とだけ信じているのであれば、モーセは何のジレンマも感じることなく、民を見捨てて先へ進むことができたでしょう。

 しかし、モーセが信じる神は正しい神であると同時に、慈しみ深くも忠実に約束を果たしてくださるお方です。モーセ自身が神の憐れみと慈しみを何度となく経験しています。モーセはアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた神の契約に訴え、また自分たちをエジプトから導き出したその目的に訴えて、神に怒りを鎮めていただき、民の罪を赦していただけるようにと願います。

 このモーセの執り成しは、わたしたちにとっても深い教訓を示しています。わたしたちは自分が正しいから執り成すことができるのではありません。そうではなく、罪深い自分に対する神の慈しみを知っているからです。神がただ裁く神ではなく、忍耐と赦しと慈しみに富んでおられるお方であることを身をもって経験し、これからもそうあり続ける神を信じているからです。

 また、こうもいうことができます。わたしたちの頑なさはイスラエルの民と変わりません。それにもかかわらず激しい神の怒りから免れています。それは、自分の知らないところで誰かが執り成しの祈りを献げているからです。誰も自分のために執り成してくれないとしても、イエス・キリストはわたしたちの代弁者として、わたしたちのために執り成してくださっているのです。

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