聖書を開こう 2023年10月12日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  唯一の主である神に従う(出エジプト20:1-4)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 宗教の分類には色々な観点がありますが、礼拝の対象として神または神々の存在を信じる宗教と、教えや真理だけを重んじて、それを規範として生きていく宗教があります。後者の典型は儒教がそうだと分類されますが、儒教が宗教であるという分類そのものに反対する人もいます。また、仏教も本来は、神を礼拝の対象として持たない宗教です。基本的には教えの実践がその中心です。

 それに対して、神または神々を礼拝の対象として持っている宗教には、さらに大きく分けて、複数の神々を信じる多神教と、ひとつの神だけを礼拝の対象としてもつ、一神教とがあります。そして、一神教をさらに分類すると、他の宗教の神々の存在を認めつつも、礼拝の対象をひとつだけとする拝一神教と、他の神々の存在そのものを否定する唯一神教とに分類されます。その典型はユダヤ教、キリスト教、イスラム教が挙げられます。それ以外の宗教で厳密に唯一神教を教えとして持っている宗教はほとんどありません。

 きょうは、その唯一神教を宣言される神ご自身の言葉から学びたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記20章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」

 今日取り上げた個所は、いわゆる十戒の言葉の冒頭の部分です。十戒の全内容は出エジプト記の20章2節から17節に記されていて、それを「十の言葉」と呼んでいるのは申命記4章13節です。ではその十の内訳の区切り方は、というとユダヤ教とローマカトリック教会とルター派を除くプロテスタント教会とでは、微妙に違っています。ユダヤ教もローマカトリック教会もプロテスタント教会とは区切り方の理解は異なりますが、そこで教えられている事柄の重要性については共通の理解をもっています。

 この十戒は、最初に主である神の宣言から始まります。そこでは、この十戒を与えてくださった神と、それを受け取る人々との関係が述べられます。主なる神は、あなたの神であること、あなたを奴隷の家から導き出したお方である、ということです。

 「あなた」というのは、直接的にはエジプトから導き出されたイスラエル人を指しますが、この出来事を経験したイスラエル人は、やがてこの地上での生涯を終えてしまいます。その時、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とおっしゃる神の言葉は、遠い過去の出来事になってしまうのでしょうか。

 そうではありません。その同じお方は、引き続きご自分に従う者たちの神であり、救いを提供してくださるお方です。そういう意味で、この十戒の序文ともいえるこの言葉は、この後の世代のイスラエル人にとっても、またキリスト教会の人々にとっても重要な宣言です。わたしたちに、救いをもたらしてくださったお方であるからこそ、このお方のお心に耳を傾けて従うことが大切なのです。

 そのお方が、第一の言葉として述べていることは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という命令です。これは神はおひとりであって、他には神はいないという宣言に等しい言葉です。聖書の神は、他の何かが神を名乗ることも、神として崇められることもお認めにならないお方です。それは神の心が狭いからではありません。事実、神はおひとりしかおられないからです。おられないにもかかわらず、人の側で神の数を増やせば、それは全くのむなしい信仰に終わっててしまうからです。

 言い換えれば、この言葉に従うときに、むなしい信仰や迷信から人は解放されるということです。

 出エジプト記の文脈の中で言えば、イスラエルの人々はエジプトでの暮らしの中で、エジプトの宗教を目の当たりにしてきたことでしょう。立派な神殿や荘厳な儀礼も目にしたかもしれません。あるいは、これから行く先で様々な民族の宗教と出会うこともあるでしょう。そうした宗教は彼らにとって目新しく、魅力的に写るかもしれません。その時に、エジプトを出たイスラエルの民は、神ではないものに心を捉えられて、迷信とむなしい信仰に落ちていってしまう危険に陥ります。誰の声に聴き従い、誰の手に頼ることが、一番の幸福であるのか、十戒の第一戒はそのことを教えています。

 わたしたちの生きる文脈の中でこの言葉を受け止めるとすれば、宗教的な神々だけが問題なのではありません。唯一まことの神に代わって幸福をもたらすと人間が考える、ありとあらゆるものがそれに該当します。

 それに続く言葉を、プロテスタント教会は十戒の第二戒と理解しています。その言葉とは、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」という言葉です。

 この言葉は、第一戒が述べていることと同じではありません。他の神を作って礼拝してはならない、という意味ではなく、唯一まことの神を礼拝する方法が、目に見えるような偶像を通してであってはならないということです。

 神は霊的なお方ですから、そもそも形作ることはできません。形のないお方を特定の形に押し込めてしまうこと自体、神を正しく理解することを妨げてしまいます。

 しかし、悲しいことに、人間は目に見えない神とのコミュニケーションを目に見える形に変えて満足しようとしてしまうのです。

 例えて言えば、遠距離恋愛の中にいる相手が、自分の代わりに人形を作って、その人形を通して自分と満足のいくコミュニケーションがとれると思い始めたらどうでしょう。こんなに悲しいことはありません。

 形あるものはやがては朽ち果てたり、溶け去ったり、劣化したりするものです。もし偶像を通して神を礼拝している時に、その偶像が突然倒れたり、ひびが入って頭が落ちてしまったらどうでしょう。その度に不吉なことの前兆ではないかと心が揺れ動いてしまうでしょう。そんなことで神への信仰が揺らいでしまうことを、聖書の神は望んでいらっしゃらないのです。そうかといって、偶像はいくらでも作り直せるから問題はないと思うのであれば、それはそれで神に対する信仰の態度にも影響が出てしまいます。かけがえのない唯一まことの神への信頼ではなく、不都合な時にはいつでも作り直せてしまう神という目で神を考えてしまうからです。

 こうして神は、十戒を通して、約束の地へと向かうイスラエルの民とご自身との関係を正しく実りあるものへと導いてくださいました。

 この戒めは、そのあとの時代に生きるわたしたちにとっても、正しく生きる大切な指針です。唯一まことの神にだけ信頼し、このお方を正しい方法で礼拝するときに、人は真の幸福に導かれていくのです。

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