聖書を開こう 2023年10月5日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  主を試す不信仰(出エジプト17:1-7)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人生の歩みの中で、一度も困難に直面したことがない人はほとんどいないでしょう。ないという人がいたとすれば、それは既に困難を克服して、もはやそれを困難とは思わなくなるほど成長したか、あるいは、本当に困難に直面したことがない人か、どちらかだと思います。

 誰も困難に進んで直面したくはありませんが、しかし、困難に直面することで多くのことを学び、成長することができるのも真実です。聖書の中では、神はしばしばそのような困難に人を直面させて、信仰の成長を促されます。聖書ではそれを試練と呼びます。

 しかし、その過程で、人もまた神を試し、疑い、不信仰に陥ることもあります。

 きょう取りあげようとしている聖書の個所は、試練に遭うイスラエルの民が不信仰をあらわにします。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記17章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

 きょうの個所を読み解くうえで、大きな前提があります。エジプトを脱出したイスラエルの民が水や食べ物のことで困難に直面するのは初めての経験ではなかったということです。前回取り上げた個所は食料の不足についての民の不平でしたが、その前に、既に水についての問題は経験済みでした。

 葦の海を渡って3日ほど旅をつづけたとき、早くも水についての困難が生じました。出エジプト記15章に記されている話です。マラにたどり着いた一行は、さっそくその地の水が苦くて飲めない困難に直面します。旅先で水問題に直面するのはその時は初めてのことでしたから、動揺してしまうのも無理はありません。

 しかし、今回は既に経験済みのことです。しかも、マラでの経験は、ただ主なる神が苦くなった水を飲めるようにしてくださったというばかりではなく、将来にかかわる神の約束を伴うものでした。その時、神はこう約束されました。

 「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」(出エジプト15:26)

 今回の出来事では、正に主に聞き従うかが試されています。言い換えるならば、神の民としての成長が期待される出来事でした。

 しかし、彼らの反応は、あの時から少しも進歩することなく、「不平」を口にすることに終始しています。マラでの出来事、そして前回取り上げたシンの荒れ野での出来事を経験しながらも、不平しか言いません。その不平は、自分たちの直面している問題を共有するというのとは違います。問題を共有したうえで、問題の解決に向かって何かをするというのでもありません。

 その責任をモーセに押し付け、ひいてはその背後に働いておられる神をも非難する勢いです。今まで何度も民のために特別な働きをしてくださった神が、彼らの心には何の影響も与えていないかのような態度です。

 もちろん、そうした彼らの信仰の弱さを非難することは簡単です。しかし、このイスラエルの弱さこそ、罪と堕落によって目が曇っているわたしたちそのものの姿なのです。神の恵みを体験しながらも、それを過小評価し、あるいは忘れ去って、神を疑い、神を試してしまうわたしたちです。

 マラでの神の約束の言葉がはっきりと示しているように、神は信仰者であるイスラエルの民に、ご自分に聞き従うことを望んでおられます。困難な中でこそ、神に思いを向け、神に信頼し、神に助けを求めて聞き従うことが求められています。

 では、イスラエルの民はどうあるべきだったのでしょうか。不平を述べる前に、何をすべきだったのでしょうか。

 先ずは、問題が正しく認識されているか、確かめる努力が必要です。もちろん聖書の短い記述の中には、すべてが記されているわけではありませんから、彼らが不平を述べる前に、水を探してどれだけの努力をしたのかは分かりません。もし、していないのであれば、まずそこから手を付けるべきでしょう。本当に水がないことが問題なのか、それとも、探す努力を怠っているだけで、ほんとうの問題がどこにあるのかを見間違ってはいないか、まず自分たちの問題意識を疑ってみるべきです。

 次に、本当に水がないことが問題であることが明らかとなったなら、信仰者である彼らは、その問題を全員が共有し、共に祈り、その惨状を主に訴えるべきだったでしょう。祈りつつ行動をとったとしたら、決して不平など口にはできなかったはずです。祈りの共同体として、共にモーセと歩み続けることができたはずです。

 しかし、この個所を読む限り、彼らは祈ることもなければ、信仰者としてこの問題を受け止めようとする気配もありません。モーセにすべての責任を押し付け、不満を述べるだけで、何の問題解決の足しにもなっていません。

 祈りは神への信頼がなければ献げることはできません。神を信頼する者だけが、真摯な祈りを献げることができます。そのような祈りは、たとえその祈りが自分の期待した通りに答えられないとしても、さらにその先にある神の御心を求めて、一層神への信頼を高めます。

 神がしばしば信仰者たちを試みるのは、そのような訓練のためです。

 けれども、そのような神の試みに真摯に向き合おうとしないこのイスラエルの民に、神は忍耐と憐れみとをもって応えてくださいます。彼らが真摯になって祈り求めるよりも前に、彼らの不平に耳を貸し、彼らが求める水を与えてくださいます。このような神の忍耐の中でわたしたちが生かされていることを知ることは大切です。

 後に詩編の作者はこの出来事に言及して、こう歌っています。

 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。 わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。」(詩編95:7-9)

 心を頑なにするのではなく、神に信頼して聞き従う者とならせていただくように、祈り求めましょう。

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