メッセージ: 救いは神の御手の中に(出エジプト14:19-31)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
出エジプト記に記された出来事の中で、印象に残る場面はいくつもあります。その中でよく知られているのは、モーセに率いられたイスラエルの民が、真っ二つに分かれた海の間を通って行く場面ではないかと思います。
きょうはその場面が登場する聖書の個所を取り上げます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記14章19節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
前回取り上げた個所では、神がエジプトに生まれた初子を、ことごとく滅ぼされる災いをもたらしたこと、そして、イスラエルの民は特別なしるしによってその災難を逃れることができた次第を学びました。
ファラオは奴隷として過酷な労働を強いてきたイスラエルの民をとうとう解放することを承諾しました。しかし、ファラオは再び心を頑なにして、エジプトを脱出するイスラエルの人々を執拗に追いかけてきます。とうとう行く手には海が、後方からはエジプト人たちが迫ってきて、絶体絶命と思われたときです。
神は御使いたちを移動させてイスラエルの人々の後ろを守らせ、またそのことを目に見える形で示すために、彼らの前にあった雲の柱を後ろに立たせ、エジプトの陣とイスラエルの陣との間を隔てるようにしました。こうして、彼らの間に一定の距離を保たせ、神はイスラエルの民を守りました。
そればかりではありません。神はモーセに命じて、その杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べさせると、海の水は二つに分かれ、両側に壁となり、乾いた地が現れます。海の中をイスラエルの民が渡り終えると、再び海の水は戻り、後を追ってきたエジプト人たちを飲み込んでしまいます。
この話はほとんどの人にとって、ありえないこととして片づけられてしまいがちです。あるいは、何とかこれを自然現象として合理的に説明しよう試みる人もいます。しかし、ここで無視することができないのは、これらの出来事がイスラエル民族の歴史の中で、語り継がれてきたという事実です。それはイスラエル民族の救いの歴史であり、民族を形作る原点ともなる出来事だからです。神の民を支える共同体の信仰といってもよいと思います。
そのような信仰を生み出した出来事から、今を生きえる私たちはどんなことを学ぶことができるのでしょうか。
第一に、絶望は神への信頼へと変わる機会を与えるということです。
出エジプト記の14章全体を読むときに、この海を渡る場面に先だって、民の中には絶望が支配していた様子が描かれます。自分たちに迫るエジプト人の戦車や兵士を見たイスラエルの人々は、こう嘆きます。
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。」(出エジプト14:11)
絶望というのは、ある意味、神を知るうえで大切な機会となります。14章をさらに詳しく読むと、このような絶望的な状況を作り出したのは、神のご計画であったことがわかります。神はわざわざモーセに命じて、海辺にイスラエルの民を宿営させています。
自分たちの手で何とかできると思っているうちは、神への信頼もその程度で終わってしまいます。絶望の中で神に出会うこと、そのことを大切なこととして受け止める必要があるように思います。このような状況の中で、「神も仏もあるものか」とただ嘆くだけではなく、まことの神に望みを置き続けることが大切です。そして、このことが、ただの「苦しい時の神頼み」に終わってしまわないことです。このように絶望を真摯に受け止め、神を頼る者へと変えられることの大切さを、出エジプト記14章の出来事から学ぶことができます。
第二に学ぶべき点は、神は人間の不可能を可能に変えてくださることです。
先ほど、絶望を真摯に受けとめることの大切さについて話しましたが、もちろん、絶望が絶望に終わってしまったのでは、希望がありません。
海を割き、乾いた地を渡らせる神は、人間にとっての不可能を可能に変える力をもったお方です。そのようなお方として、ご自身を示しておられます。ここにこそ私たちの希望があります。
本来なら、一度の経験から学んで、神への信頼を増し、いつも希望をもって生きることができれば、信仰者として理想的です。しかし、実際にはイスラエルの民は、このあとも絶望と安堵と背信行為の繰り返しでした。それにもかかわらず、神は忍耐をもってイスラエルの民を扱い、ご自身の力に信頼して成長できるようにと導いてくださいました。私たちもまた、たとえ時間がかかったとしても、このような神の力を確信し、神に信頼して歩み続けることが大切です。
第三に学ぶべき点は、神に従うモーセの従順な姿勢です。
出エジプト記の14章全体を読むときに、モーセは主の御言葉に従順に従い通しました。確かに、今の時代ではモーセの場合と違って直接神の言葉が耳に届くわけではありません。しかし、神が信仰者に望んでおられることは、聖書に明確に記されています。その記された神のみ旨にさえ、従いとおすことが難しい私たちです。だからと言って、従いとおすことの大切さを割り引いてはなりません。神のみ旨に従って生きることができるように、勇気と力を祈り求めていきたいと願います。