聖書を開こう 2023年8月31日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  モーセの誕生(出エジプト1:8-2:3)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書を知らない人でも、「モーセの十戒」という言葉は耳にしたことがあると思います。聖書の神がモーセを通して与えた十の戒めを「十戒」と呼んでいます。そのモーセの生涯を描いた映画『十戒』は既に70年近く前の映画ですが、一大スペクタクル映画として話題を呼びました。

 日本では「ドラえもん」の道具にも「モーゼステッキ」や「十戒石板」が出てくるくらい、モーセの名前は子どもにも知られています。

 これから何回かにわたって取り上げるモーセは、それくらいに名が知れている人物ですが、残念なことに聖書から直接学ぶ機会はほとんどないように思われます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 出エジプト記1章8節〜2章3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、3か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの篭を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。

 今日取り上げるのは、モーセの誕生にまつわる話です。前回まで学んできたヨセフの時代が過ぎ去り、もはやなぜイスラエル人がエジプトにいるのかさえ記憶にない世代が起こった時代の話です。

 どの時代、どこの国でもそうかもしれませんが、外国人が増えることを快く思わない人たちがいます。

 モーセが生まれた時代のエジプトは、まさにイスラエル人に対してそういう気持ちを抱いていました。エジプトの王ファラオの言葉が、こう記されています。

 「一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト1:10)

 自分たちと共に戦う「同志」という感情よりも、「危険分子」として思う感情が完全に勝っています。ファラオにしてみれば、今、危機管理を怠れば、この国にとって末代までも辛苦をなめることになるほどの状況でした。

 そこで思いついたのが、過酷極りない重労働を課して、イスラエル人の生活を脅かすというものでした。しかし、どんなに重労働を課しても、一向に人口は減りません。減らないどころか増え続けていきます。業を煮やしたファラオは生まれてくるイスラエル人の男の子を殺すようにと命じます。自分が生き残るためには他者を抹殺してもよいと、身勝手にも考える人間の罪深さをここにも垣間見る思いです。

 ところが、命じられた二人のイスラエル人の助産婦は生まれてくる子どもたちの命を守ります。それはまさに彼女たちのいだく神への畏れからくるものでした。困難極まる状況の中でも神を畏れて誠実に生きようとする信仰者の姿です。国の将来に不安を抱くファラオとは対照的な生き方です。

 そのような状況の中で生まれたのがモーセでした。男の子であったため、殺されるはずのモーセでしたが、しかし、神を畏れる両親のもとで3か月間かくまわれ、いよいよ隠し切れなくなったとき、赤子のモーセをパピルスで編んだかごに入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きます。もちろん置き去りにしたのではなく、モーセの姉が茂みの陰から最後まで見守ります。

 こうしてファラオの娘に拾われて、ファラオの王女の子どもとして養われるモーセでした。

 さて、この話からどんなことを信仰者として学ぶことができるでしょうか。

 第一に、神のご計画は成就に向かって確実に進んでいたということです。ここに描かれるイスラエル民族の状態は、過酷極まるものでした。神の約束を信じる信仰がなければ、ただ、悲惨でしかない時代です。いつ終わるとも分からないこの時代にあって、確かに神のご計画は人知れず、しかし、着実に進んでいました。この神のご計画の実現をただ信仰によって受け止める者だけが、この困難な時代を乗り越えていくことができました。

 第二に、この時代は陰ながら信仰に生きる人たちによって支えられていたということです。二人の助産婦がそうであり、モーセの両親や家族がそうでした。モーセ自身は後に偉大な役割を与えられますが、その背後にあって信仰に生きた人々の、神を畏れて生きる敬虔さを教えられます。偉大な人物が世界を変えるのではなく、神を畏れて生きる中で、神はその人たちを通して、偉大なことを成し遂げる指導者を生まれさせてくださるということです。

 第三に、この話全体を通して、神は信じる者の側に立ってくださっているということです。ファラオは躍起になって自分の国に住むイスラエル民族を減らそうとしました。そのためには手段を選ばないほど横暴でした。しかし、それにもかかわらず、ファラオの計画は何一つその目的を達成することができませんでした。

 赤ん坊のモーセでさえ、一歩間違えば殺されてしまいそうな状況にありながら、しかし、神はご自分を信じる民のために、いつも守りの御手を差し伸べてくださいました。これらのことは、今を生きる私たちにとっても勇気と希望を与えます。この世のどんな力も、神とその民とをくじくことはできないのです。

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