聖書を開こう 2023年8月17日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  父の偏愛と兄たちの恨みの中で(創世記37:1-8)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 創世記に登場する族長と呼ばれる人々は、神によって特別に選ばれた人々でした。まことの神を信じる人たちという点では、周辺に生きる人々とは違っていました。しかし、罪人という点では、堕落したアダムの弱さをそのまま受け継いでいる人たちです。選ばれるに値するような何か特別な長所があったというわけではありません。そういう意味で族長たちが神に選ばれたのは、まったくの一方的な神の恩恵ということができます。

 聖書は族長たちをそういう選ばれた罪人として、その生活を赤裸々に描いています。そして、そういう選ばれた罪人に対して向けられる神の恵みと導きを大胆に描きます。それは、ただイスラエル民族の救いのためではなく、この民族を通してもたらされる人類の救いへとつながっていく壮大な救いのストーリーへと発展します。

 きょう取り上げるヨセフの話もそうした救いの歴史につながる話の一端です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 創世記37章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは17歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」

 アブラハム、イサク、ヤコブへと続く族長たちですが、ヤコブもまた約束の土地、カナンに暮らしていました。ヤコブにはそのころまでに2人の妻と2人の女奴隷との間に12人の男の子が与えられていました。とりわけ、ヤコブはヨセフを溺愛していました。

 ヤコブ自身が母親の偏った愛によって、兄との歪んだ兄弟関係で苦しみましたが、その同じ苦しみを今度はヨセフが味わうことになるとは、ヤコブも思わなかったのでしょう。

 ヨセフは兄たちのことを父に告げ口します。ヨセフにしてみれば、兄たちのありのままを父のヤコブに報告したに過ぎなかったことでしょう。そのことが兄たちにとってどんなことを意味するか、ヨセフには想像することができませんでした。17歳にもなってそういう想像力がないのは、あまりにも無邪気過ぎるかもしれません。

 あるいは、もし、兄たちが父から叱られる姿を見ることが楽しみで、告げ口したのだとすれば、それはそれで性格の悪いヨセフです。

 いずれにしても、そのように育ってしまったのは、父親のヤコブがヨセフを特別扱いしていたことに遠い原因がありそうです。何しろヤコブはこのヨセフを、どの息子よりもかわいがり、ヨセフだけに裾の長い晴れ着を作ってやっていたからです。

 兄たちは兄たちで、そのように特別扱いされるヨセフを憎み、穏やかに話すことすらできない関係にまでなっていました。年の離れた兄たちはもっとヨセフに対して寛大であるべきだったでしょうか。確かにそうかもしれません。しかし、現実はそんなに寛大な心を持てなかった兄たちでした。それもまた父親のヨセフに対する長年の偏った愛がもたらした結果でしょう。

 兄たちとの関係は、ヨセフの見た夢によってますます悪化します。夢を見るのは仕方のないことかもしれませんが、それをまた無邪気に話すヨセフにも問題がありそうです。

 その夢とは、畑で兄たちと一緒に束を結わえていると、いきなりヨセフの束が起き上がり、まっすぐに立ったというのです。すると、兄たちの束が周りに集まって来て、ヨセフの束にひれ伏した、という夢でした。

 普段から関係が悪い兄たちですから、その夢を善意には受け取れません。王様気取りのヨセフをますます憎むようになります。

 さらにヨセフは別の夢を見ますが、今度は、太陽と月と11の星がヨセフにひれ伏す夢です。さすがに父のヤコブもこんな夢を何の躊躇もなく語り聞かせるヨセフを叱ります。

 さて、このヨセフが見た夢は、後になって思いもかけない仕方で実現します。このあと妬みを抱く兄たちによってヨセフはエジプトに売り飛ばされてしまいます。兄たちにとっては、これで夢は実現するどころか、一生ヨセフの顔を見ずにすむと思ったことでしょう。しかし、売られていったヨセフはエジプトで大臣の位につき、飢饉が襲うこの地方一体にあって、唯一穀物を蓄えて国民を飢餓から救います。

 そうとは知らない兄たちは、エジプトに食糧を求めて来訪し、ヨセフとは知らずに食糧を求めてひざまずきます。

 さて、ここからわたしたちは何を学ぶべきでしょうか。ヨセフのような特殊な事例から、どんなことを一般化して学べるでしょうか。

 第一に、ここに係る家族のメンバーは、それぞれに人間的な弱さの中に生きた人々でした。ヤコブは子どもたちすべてに向けなければならない愛を、ヨセフ一人にだけ向けてしまうという過ちを犯しました。その愛を向けられたヨセフは、他者がどう思うか、どう感じるかを想像することができない人に育ちました。そういう意味で成熟さにかけた人であり、同時にそのために自分の身に災難を引き寄せてしまう人でした。兄たちもまた、そのような家族の中で、寛容や赦しについて、ほどんど学ぶ機会を与えられずに、ただ憎しみだけを身に着けた人たちでした。そういう意味で、ここに描かれる家族は罪の影響に翻弄されながら、自分ではどうすることもできない人たちです。それはわたしたち自身の姿とも重なっています。

 第二に、そのような罪人に、神は特別な仕方でかかわっておられるということです。神の摂理は、どのようにわたしたちの人生にかかわってくるのか、誰もそれを予想することはできません。ただ、あとになって初めてそのことに気が付かされるのがやっとです。そのことから言えることは、どんなに絶望的と見える事柄の中にも、既に神の摂理が働いているという希望を捨ててはならないということです。どうしようもない人間の営みを通してさえも、神は万事が益となるようにと働きを始めておられるのです。ここにこそ神を信じる者の希望があります。

 そして、第三に、このような神の摂理の前に、わたしたちは謙遜でならなければならないということです。このヨセフの話には、登場人物の誰も自分の手柄を自慢することはできません。罪から生じたものを、神が一つ一つ用いて良い方向へと変えてくださったのです。わたしたちにできることは、ただこのような結果をもたらしてくださる神に感謝し、この神に委ねてこれからも歩み続けていくことです。

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