メッセージ: 離しません、祝福を得るまでは(創世記32:23-31)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人が生きていくときに、様々な困難を経験します。時にはその困難に一人で立ち向かわなければならない時もあります。そのとき、自分に共感し、寄り添ってくれる仲間がいれば、心強く感じ、励みにもなります。
しかし、共感してくれる仲間がいたとしても、誰かが自分に代わってその困難を解決してくれるとは限りません。そのような困難は自分で引き受けるしかありません。まさに困難との孤独な戦いです。
今学んでいるヤコブの生涯の中で、ヤコブもまた孤独な戦いを経験します。しかし、その戦いは困難そのものとの戦いというよりは、自分の人生をつかさどっておられる生きたまことの神と、真剣に向き合うことへと昇華されていきます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 創世記32章23節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その夜、ヤコブは起きて、2人の妻と2人の側女、それに11人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
きょう取り上げた個所は、いよいよ伯父のラバンのもとを去って、再び故郷へ戻ろうとするヤコブ一族の話です。
前回は、伯父のもので14年間働くことになったヤコブのことを取り上げました。その間に結婚もし、たくさんの子どもたちにも恵まれたヤコブでした。そうこうしているうちに月日は流れ、20年の歳月があっという間に経ちました。ヤコブ自身はこの20年の歳月をどう感じていたのでしょうか。この20年を振り返って述べた言葉があります。
「この20年間というもの、わたしはあなたのもとにいましたが……わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。しかも、わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。この20年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち14年はあなたの2人の娘のため、6年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を10回も変えました」(創世記31:38-41)
この言葉を読むだけで、どれほど辛い生活だったかが分かります。一族を連れて伯父のラバンの家を飛び出したヤコブの気持ちが滲み出ています。しかし、ヤコブにとってこの20年間は辛いだけの20年ではありませんでした。辛い中で、神を身近に感じる20年でもありました。神は自分の労苦と悩みを目に留めてくださったと、心から告白できるヤコブです(創世記31:42)。この神が共にいてくださることを確信できなければ、ラバンのもとを離れる勇気も出なかったことでしょう。
こうしてラバンの家を飛び出したヤコブでしたが、前途にはまだ解決しなければならない大きな問題を抱えていました。それは兄エサウとの仲たがいです。それも小さな兄弟げんかではありません。ヤコブが犯した過ちによって、兄のエサウは弟のヤコブを殺してしまおうと本気で思うほどの仲たがいでした。
故郷に帰る道々、ヤコブは兄と和解できる道を探ります。まずは、使いを送って兄の機嫌を伺わせます。送り出された使いは、務めを終えてヤコブに報告します。
「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、400人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」(創世記32:7)。
この報告はヤコブを恐れさせます。それは歓迎のための400人なのか、自分を迎え撃つための400人なのか、兄エサウの真意を計りかねたからです。周到にも周到を重ね、ヤコブは連れてきた人々を二組に分けて、どちらかが襲撃されても、もうひとつの組が生き残れるようにと準備します。そればかりではありません。ヤコブは今まで自分を支え導いてくださった神に祈ります。その祈りの中で、ヤコブは自分の恐れを素直にこう告白します。
「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」(創世記32:12)
祈りつつ、備えつつ、兄との再会に向けて一歩を踏み出すヤコブです。連れだった者たち一同、ヤボク川を渡らせたヤコブは一人そこにとどまります。
すると何者かが現れて、夜明けまでヤコブと格闘をしたというのです。それは姿を変えた神ご自身でした。
戦いはヤコブが優勢でした。しかし神はヤコブの腿の関節を一打ちするだけで、その関節をはずしてしまいます。それでもなお、格闘は続き、夜が明けてきます。
戦いの相手はヤコブに懇願するようにこう言います。
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」
なぜ、神はヤコブに現れ、格闘を挑んだのでしょうか。なぜ、神は勝負をつけずに帰ろうとするのでしょうか。いったい何のためにこんなことをしたのでしょうか。
それは、この後に続く神とヤコブの会話の中にヒントが示されています。「去らせて欲しい」と願う相手に対して、ヤコブはこう答えました。
「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」
ヤコブにとって、この格闘はただの力の競い合いではありませんでした。それは上からの祝福を求める祈りの戦いだったのです。また、それはある意味、自分との戦いであったといってもよいかもしれません。
神の側では既に祝福を約束してくださっているのですから、祝福をせっつく必要などありません。
しかし、ヤボクの渡し場を渡るとき、その向こうで自分を待っているものは、自分に対して敵意と恨みを抱く兄エサウです。殺されるかもしれないと思う恐怖の前に、この土地に必ず連れ帰ると約束される神の言葉を疑って、どかに逃げ去りたいと思ったとしても不思議ではありません。
けれどもヤコブは必ず祝福してくださる神を頼ろうと、恐れる気持ちを跳ね除けて、神に全身をぶつけて祝福を求めます。この戦いを通して、神はそのような機会をヤコブに与えてくださったのです。
わたしたちもまた、自分の信仰が弱りそうな困難に遭遇するときにこそ、祝福を求めて、神と真剣に向き合うことが求められています。このような神と向き合う戦いを通して、信仰者としてのアイデンティティがより深められていくのです。