メッセージ: 目に見えないものを軽んじる失敗(創世記25:27-34)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
サン=テグジュペリの書いた『星の王子様』の中に、こんな名言があります。
「大切なものは目に見えない」
しかし、人はしばしばその逆を生きているような気がします。目に見えるもの、手で触って確かめることができるものだけが価値のあるように思っています。もちろん、愛や信頼、希望が大切だと言われれば、それを否定する人はほとんどいないでしょう。けれども、目に見えない神を信じる信仰となると、それを大切と思う人の数は途端に少なくなってしまいます。
これは、今に始まったことではありません。鎌倉時代の仏教文学『宇治拾遺物語』にも、目に見えない功徳を軽んじる話が出てきます。もっと時代をさかのぼれば、旧約聖書の中に目に見えないものを軽んじてしまう人の話が出てきます。きょうはその話を取り上げて学びたいと思います。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 創世記25章27節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。
ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。
アブラハムの息子イサクには、双子の子どもが生まれました。兄の名をエサウ、弟の名前をヤコブと言いました。双子とはいえ、すべてが見分けがつかないくらいそっくりだったわけではなかったようです。二人の外観はかなり異なっていました。兄のエサウは毛深く、弟のヤコブの肌はなめらかでした。異なっていたのは、外見ばかりではありません。性格も異なっていました。兄のエサウは巧みな狩人で野の人となりましたが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りでいつも働いていました。
しかし、これだけならまだしも、この二人の違いが、両親の偏った愛へと発展します。父のヤコブは狩りの獲物が好きだったので、必然的にエサウの方を愛します。それに対して母親のリベカは天幕のそばで働く穏やかなヤコブの方へと愛が向かいます。一人だけが両親の愛を一手に受けて育つよりはましとも言えますが、最初からいびつなバランスの中で暮らしていたこの家族には、不安定さがありました。
ある日のこと、弟のヤコブが煮物をしていると、そこへ兄のエサウが狩りから疲れ切って帰ってきます。当然のこと、煮物料理の匂いは風に乗って、家にたどり着く前からエサウの食欲をそそっていたことでしょう。帰宅するなりエサウはヤコブに向かって言います。
「お願いだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」
もし仲の良い兄弟であれば、ヤコブは素直に煮物の豆料理を疲れ切った兄に差し出しだしたでしょう。しかし、この時ぞとばかり、ヤコブは兄のエサウに言います。
「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
これは一体どうしたことでしょう。両親の偏った愛情が、こんなところに形となって表れたのでしょうか。誰がどう見て意地悪なヤコブにしか見えません。兄に対する敵意さえ感じます。母親から自分が溺愛された分だけ、兄を見下すようになったのでしょうか。あるいは、父親の愛を受けなかった分、それを違った形で取り戻したかったのでしょうか。
しかし、兄のエサウの方は、ヤコブの言ったことなど気にも留めていないようです。長子の権利がどうのこうのという話よりも、目の前にある食べ物のほうが大事です。エサウはこう答えます。
「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」
「もう死にそうだ」というのは、大げさすぎる言い方です。しかし、エサウにとってはそれほどの空腹だったのでしょう。そんな空腹のときに長子の権利の話をもちだされても、心がそこに向かうはずもありません。ある意味、兄の性格を知り尽くしたヤコブの作戦だったのかもしれません。公平な目でこの出来事を見れば、ヤコブの作戦は倫理的にほめられることではありません。一体だれが人の空腹に乗じて、自分に有利な条件を飲ませるでしょうか。目的達成のためには手段を選ばないとはこのことです。
ヤコブはさらに畳みかけて言います。
「では、今すぐ誓ってください。」
「長子の権利などどうでもよい」というエサウの発言がただの軽はずみな発言であれば、後になって取り消すこともできたでしょう。しかし、誓いとなれば話は別です。いくらなんでも、誓いの重みはエサウも知っていたはずです。そしてまた、そこまでして長子の権利を手に入れようとするヤコブの執念深さを感じます。
とうとうエサウは空腹感に負けて、弟の前で長子の権利を譲る誓いをしてしまいます。食べ物を手に入れたエサウは、事の次第の大きさに気が付くこともなく、空腹を満たしてその場を立ち去っていきます。
さて、聖書はこの出来事に対して、ヤコブの非には一切触れません。ただ、エサウがこうして長子の権利を軽んじた、と話を結んでいます。そのことの意味を十分に考える必要があるように思われます。
普通なら、ひどい弟だという非難の声が聞こえてきそうです。むしろエサウに同情票が集まるかもしれません。しかし、聖書は長子の権利を軽んじたエサウの生き方に読者の心を向かわせています。
考えてもみれば、長子の権利は目に見えるものではありません。形となって表れるのは、父親が亡くなって家督を相続するときの話です。エサウにとっては、目で見ることができないもの、今ここで形となって表れるものに以外には関心がありません。
実はエサウが軽んじたのは長子の権利だけではありません。誓いをも軽んじていたのです。こんな重要なことを何も考えずに誓えるということ自体が、誓いの重さをまったく気にも留めていない証拠です。例えば、いくら空腹だからと言って、ご飯を差し出してくれた人が誰であれ、その人と結婚の誓いを立てる人がいるでしょうか。誓いなんかいつでも取り消せると軽んじていなければ、誓って何かをするなどできないはずです。それは結局のところ、目に見えない神を軽んじる生き方につながっていくのです。
信仰に生きるとは、それとはまったく異なる生き方です。目に見えない神に信頼し、目に見えない神の約束を信じて生きる生きかたなのです。