聖書を開こう 2023年7月13日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  キリストと歩む安らぎ(マタイ11:25-30)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の掲示板に掲げられている聖書の言葉の中で、よく目にするのは、マタイによる福音書の11章28節に記されているイエス・キリストの言葉です。そこにはこう書かれています。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

 この言葉を見て、教会に初めて足を運んでみたという人は、少なからずわたしの周りにもいます。ある意味、この世に生きるということは、古今東西を問わず、心に疲れを感じさせるのかもしれません。そして、心の疲れを感じることは、ある意味、体にとっても魂にとっても健全なことなのかもしれません。なぜなら、疲れを感じなければずっとその状態にい続けてしまうからです。

 このイエス・キリストの招きの言葉をきょうはご一緒に学びたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 マタイによる福音書11章25節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 今、お読みした個所で、イエス・キリストはまず父なる神に感謝を献げています。その感謝の理由は、神がご自身の御心とご計画を知恵ある者や賢い者にはお隠しになって、かえって幼子のような者にお示しになったからです。

 しかも、そのことは御心にかなうことだとキリストはおっしゃっています。

 真理をある者たちには隠してしまわれる神は、何だか意地悪のように感じられるかもしれません。しかし、神は積極的に知恵ある者や賢い者にご自身の御心をお隠しになっているのではありません。むしろ、彼らの方が神の御心に心を閉ざしてしまっているといった方が良いかもしれません。そして、神の側でも、そういう頑なな心を持った人たちを敢えてそのままにしておかれたということです。

 そもそも罪というのは、神に対して自分の方が賢いと思う高慢な思いから生まれるものです。マタイによる福音書は、ここに至るまでイエス・キリストの教えや御業を描いてきましたが、同時にそれに対する人々の反応も描いてきました。ファリサイ派の人々や律法学者たちは不思議とイエスを拒み、反対に罪びとと呼ばれている蔑まれた人たちがイエスを救い主として歓迎しました。神の教えに精通しているはずの律法学者たちの方が膨れ上がった心で神がお遣わしになった救い主を拒み、蔑まれてきた人たちの方がかえって心を低くして自分に必要な救い主を迎えることができたのです。

 謙虚な心がなければ、本当の自分の姿や必要を知ることはできません。自分だけは大丈夫だと思っているうちは、神が差し出してくださる救いの御手すら気が付くことができないのです。神に対して、ありのままの自分をさらけ出し、このありのままの自分を素直に救っていただきたいと思うへりくだった心こそが、神の御心と救いのご計画にあずかる第一歩です。

 そういう心の持ち主をイエス・キリストは招いておられます。その人は何よりも心の疲れを認め、重荷を重荷として感じることができる人だからです。自分の力で頑張れば何とかなるなどとは決して考えない人、自分の力の限度を知っている人だからです。

 その人たちを招いて、イエス・キリストはこうおっしゃっています。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

 この言葉には、イエス・キリストの深い人間理解が示されています。それは重荷を負って疲れ切っている人間の心に対する理解です。その重荷は人によっても違うでしょうし、また、時代的な背景によっても違うかもしれません。イエス・キリストの時代に生きたユダヤ人の庶民にとっては、律法が重荷であったといわれています。正確には神の律法や掟が重荷なのではなく、それを正確厳密に守らせようと人々が考え出した様々な解釈が、人々をかえって苦しめていました。イエス・キリストは別のところで律法学者たちについてこうおっしゃっています。

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:4)

 時代や場所が変わっても、同じようなことは今でもあります。人間が作ったルールやしきたりが、かえって人を苦しめることがあります。それは自分自身が自分に課したことが重荷となって自分を苦しめることさえあります。最初は良かれと思って定めたことが、後になって重荷となることもあります。それならまだましですが、場合によっては、自分たちが安泰であるために、他人に様々な重荷を負わす者もいます。

 抱えきれない程の重荷を負わされ、心が疲弊してしまっている人々をイエス・キリストは慈しみの目をもってご覧になっています。いえ、ただ見ているだけではなく、積極的にその人たちを招いて下さっています。大切なことは、このイエス・キリストの招きに応えて、抱えきれない重荷をイエス・キリストのもとにおろして、魂の憩いを得ることです。

 魂の憩いや平安は、目に見える変化とは異なります。生活苦がたちどころに取り去られるような劇的な変化ではありません。しかし、確実にわたしたちを苦しめる重荷からわたしたちの心を解放します。それがイエス・キリストが与える休息です。

 さらに続けて、イエス・キリストはおっしゃいます。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」

 「軛」という表現は矛盾しているかもしれません。というのも「軛を負う」のは働かされる動物たちだからです。決して良いイメージではありません。しかし、イエス・キリストがなぜわたしの軛を負うように勧めておられるのか、その意味を深く考える必要があります。

 軛とは馬車をひかせたり、畑を耕す道具をひかせるために、一対の牛や馬などの家畜の首を結ぶ横木のことです。そこから転じて自由を束縛するものの比喩にも使われます。しかし、イエス・キリストはこの「軛」という言葉を自由を束縛する意味で使っているのではありません。

 軛があることで、家畜は力を分散させることができます。1頭の牛ではできないことが、もう1頭が軛につながれることで、半分の力で仕事をすることができるのです。

 同じように、イエス・キリストはわたしたちに伴って下さり、その重荷を共に背負おうとして下さっているのです。しかも、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とおっしゃっています。気がつけばイエス・キリストがすべての重荷を引き受けて下さっています。

 このイエス・キリストと共に歩むときに、まことの安らぎを得ることができるのです。

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