聖書を開こう 2023年7月6日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  主の山に備えあり(創世記22:1-14)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしたちの人生には、試練がつきものです。傍から見て順風満帆のように見える人生であっても、その人の中ではやはり試練の時は必ずあるように思います。

 一人の信仰者として、自分の人生を顧みるとき、その試練はただの試練ではなく、まさに自分の信仰が試されていると感じるときがあります。たとえば、神に仕えようと、純粋な動機で生きてきたときに、突然の病に襲われて、今まで通りには生活できなくなったとします。その時信仰者として、このことを信仰的にどう考えたらよいのか、思い悩むことがあります。信仰に生きようとすればするほど、その信仰が試されているような思いになります。

 きょう取り上げようとしている聖書の個所にも、信仰者であるアブラハムが受けた大きな試練の話が記されています。耳を疑うような神からの命令に従順に従うアブラハムの姿が描かれていますが、書かれてはいないアブラハムの心の内は、わたしたちが想像する以上に、信仰者としての混乱と苦悩があったはずです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 創世記22章1節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。3日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに1匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

 あるときアブラハムは神から自分の跡継ぎとなるべき息子イサクを祭壇に献げるようにという命令を受けます。アブラハムが受けたこの試練は、二つの意味でアブラハムにとって不可解なことでした。第一に、異教の神々が息子や娘を犠牲として祭壇に献げることを習わしとしていたのに対して、聖書の神はそのようなことを求めるどころか、むしろ禁止する神であったからです(レビ記18:21、エレミヤ32:35)。にもかかわらず、神の口からそのような命令を聴くとは、アブラハムには理解できないことだったはずです。

 第二にたとえ人身御供が神の御心であったとしても、よりによって自分にとっては唯一の跡取り息子を献げなければならないのはなぜなのか、アブラハムには納得できなかったはずです。しかもその息子は、神ご自身が特別なしかたでその誕生を約束し、人間には考えられないような年齢になってから与えられた特別な息子でした。その息子を献げることをお命じなる神をどう受け止めたらよいのか、簡単なことではなかったはずです。

 それにもかかわらず、アブラハムは従順に神の命令に従います。それは考えることを放棄して、ただひたすら神の命令に従ったということでしょうか。そうではないでしょう。少なくともこの出来事をヘブライ人への手紙の著者は、このとき、アブラハムは「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」からこそ神の命令に従ったのだと記しています。何も考えなかったどころか、最終的には人をも生き返らせることのできる神の力に信頼するに至ったのです。

 神がこの試練を通してご覧になっているのは、命令に従ったかどうか、という客観的な事実ではありません。そのような行動を起こす根底にある、神への信頼と、信頼によって生み出される神への従順を神は見ておられます。

 しかし、神はこのような方法を通してでなければ、アブラハムの信仰や従順さを知ることができなかったのでしょうか。そうではありません。神は全知全能のおかたですから、アブラハムの心の内をご存じでした。この試練は神のためにあるのではなく、むしろアブラハム自身のためにあったというべきです。この出来事を通してアブラハムは神というお方をより深く考え、従順に従う意味を今まで以上に学ぶことができました。そして、そのことが巡り巡って、わたしたちに対する模範となり、教訓ともなったのです。

 アブラハムは神の命令に従って、息子のイサクを伴って示された場所に向かいます。献げ物を献げるためにその場所に向かうとしか知らされていないイサクには、アブラハムの行動は不思議でしした。犠牲を献げるための火も薪も用意しているにもかかわらず、肝心の犠牲の動物がいないからです。

 イサクはこの疑問を率直に父アブラハムにぶつけます。

 「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

 アブラハムはこの息子の疑問にこう答えました。

 「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

 これは苦し紛れに口から出たごまかしでしょうか。決してそうではないと私は思います。神がすべてを備えてくださっている、という信仰はアブラハムの中にいつもあった思いであると同時に、今回のことで、アブラハムはそのことをいっそう強く心の中に願っていたはずです。不可解としか思えないこのことの中にも、きっと神の備えがあり、それを目にしたいという強い希望がアブラハムを動かしていたとしか思えません。

 まさにアブラハムがイサクを祭壇に献げようと刃物を振り上げようとしたとき、神は天使を通してその行動を中断させます。主に対する信頼と、もっとも大切なものを主に献げようとする従順は、十分に明らかだからです。そればかりか、アブラハムが期待した通りに、神は雄羊を藪の中に備えてくださっていました。

 アブラハムと同じように、試練を通してこそ、わたしたちは、備えてくださる神への信頼をまし、いっそう神に従順であることを学ぶのです。

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