メッセージ: 救いの伏流(創世記21:8-21)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人間の計画は、必ずしもいつも自分の思い通りに実現するとは限りません。時には、自分の計画が予想外の望まない結果を招いてしまうこともあります。
きょう取り上げる聖書の個所も、ここだけを読めばアブラハム夫妻には何の非もないように思われるかもしれません。しかし、さかのぼって考えるなら、自分たちの計画の浅はかさがないとは言い切れません。
けれども、それにもかかわらず、神は忍耐と憐れみをもって、人間のなすことを良い方向へと変えてくださるお方です。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 創世記21章8節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。革袋の水が無くなると、彼女は子供を1本の潅木の下に寝かせ、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。
きょう取り上げた個所を正しく理解するためには、アブラハムとハガルの間にどういう経緯でイシュマエルが生まれたのかを理解しなければなりません。
そのことが記されているのは、創世記の16章にさかのぼります。エジプトの女奴隷を通してアブラハムに子どもが与えられるようにと積極的に動いたのは、アブラハムの妻サラでした。というのも、すでに神からはアブラハムから生まれる者が跡を継ぐ。それもやがては星の数のように子孫が増えると約束されていたからでした。
しかし、既に老齢であったアブラハム夫妻には、この約束は人間的に考えれば不可能な約束のように思われました。それでも、サラはこの約束を実現させるために、人間的な方法を思いつきました。それは自分の女奴隷をアブラムに差し出して、子どもを授かろうという計画でした。
サラの願い通り、ハガルはすぐにも身ごもります。けれどもサラにとってその代償は大きなものがありました。身ごもったハガルとサラの立場は、いつしか逆転しそうになります。ハガルが自分を軽んじるようになったことに気が付いたサラはアブラハムにこう迫ります。
「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。」(創世記16:5)
そう言われたアブラハムはサラに答えて言います。
「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(創世記16:6)
この二人の会話は、自分たちの行動に対する責任も行動の落ち度も認めているとは思われない会話です。
こうしてハガルは一度アブラハムの家から追い出されてしまいますが、神の助けによって再びアブラハムのもとへ戻って、イシュマエルを産みます。それから既に13年の年月が流れ(創世記17:25)、きょうの話へとつながります。
イシュマエルの立場で話を読むと、彼は自分の出生について何の責任も選択の余地もありませんでした。自分の母親がアブラハム夫妻から理不尽な仕打ちを受けたことは、母親の口を通して知っていたかもしれません。知らなかったとしても、自分や母親に対する扱いが、イサクに対するそれとは全く違うことは感じていたはずです。イシュマエルにしてみれば、それは不満の材料であり、イサクに対する敵意を抱く原因でもありました。
きょうの出来事だけを切り取って読めば、13歳も年上のイシュマエルがイサクをからかうのは、誰が読んでも赦しがたいことです。しかし、イシュマエルの立場に対する理解もこの話を読む上で大切です。
またしても、この問題で主導権を握るのは妻のサラでした。
「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(創世記21:10)
確かに、イシュマエルはいくらアブラハムの血を継いだ子供とは言え、跡取りではありませんでした。いつかは家を出て独立する身です。その意味では、サラの言い分ももっともらしく聞こえます。しかし、その発言は自分の子どもイサクがからかわれたことに対する報復としか思えません。
困り果てたのは、アブラハムでした。さすがに今度は以前のように「好きなようにするがいい」とは言いません。
この行き詰った状況に手を差し伸べてくださったのは、神ご自身でした。
「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
もし最後に約束してくださった神の言葉がなければ、アブラハムは苦しんだことでしょう。しかし、神はイシュマエルにも一つの国民の父となる道を備えてくださっていたのです。
しかし、追い出された方のハガルとイシュマエル親子にとっては、絶望的な仕打ちであることには違いありません。「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と口をついて出るほど、ハガルは悲観的でした。サラの言うとおりにアブラハムのところに入って子どもをもうけ、そのために理不尽な目に合わなければならないハガルには、どうすることもできません。
しかし、この絶望の淵にあるハガルに声をかけてくださったのも主なる神でした。人間が蒔いた種が人を苦しめるとき、神はすべてを良い結果へと導いてくださるお方です。だからと言って、アブラハム夫妻の仕打ちが正当化されるものではありません。ただただ神の憐れみが、人の罪をも覆ってくださるのです。
そればかりか、救いの長い歴史の中で異邦人として育つイシュマエルの部族も、やがてはイエス・キリストを通して神の民へと再び迎え入れられていくのです。