メッセージ: 全能の神との出会い(創世記18:1-15)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
旧約聖書を読んでいて興味深いのは、登場人物と神との特別な出会いの場面です。「特別な」といったのは、それぞれの登場人物は、信仰者として、その出会い以前にも神を信じていました。信じてはいましたが、その特別な出会いを通して、今まで自分が予想もしていなかった状況で神の特別な姿やご性質に触れることです。
例えば、族長の一人ヤコブは、兄との仲たがいがきっかけで、一人旅に出たときのことでした。日も暮れて野宿するしかないその状況の時に、夢の中で「共にいてくださる神」に出会いました。
他にも数え上げればキリがありませんが、信仰者に共通しているのは、本人は必ずしもその時、神との出会いを期待していたわけではなかったということです。
きょうこれから取り上げようとしているアブラハムの話も、アブラハムの側から神との出会を求めたという話ではありません。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 創世記18章1節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を3セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
きょう取り上げたこの出来事に触れて、ヘブライ人への手紙13章2節では、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」と記しています。
今日のようにホテルや旅館がいたるところにあって、ネットで予約をすれば、世界中どこに行っても泊まる場所を確保できる時代とは違って、見ず知らずの旅人をもてなすことは、聖書の時代にはそれほど特別なことではありませんでした。
もちろん、どの時代にも悪人はいますから、こうした人の善意を仇で返すような旅人もいたかもしれません。そういう意味では、宿を提供する者には、それなりの覚悟は必要であったかもしれません。また、頻繁に旅人をもてなせば、経済的な負担も大きくなったかもしれません。ですから、旅人をもてなすことは、昔はそれほど特別なことではなかったとはいえ、躊躇する人もいたことでしょう。
しかし、この時のアブラハムはそうではありませんでした。通りかかった三人の旅人をわざわざ自分のところに招き入れます。旅で汚れた足を洗う水と、真昼の暑さを少しでも和らげる木陰と、そして旅の疲れを回復できるようにと食事も提供しました。それもあり合わせの簡単な食事ではなく、わざわざ拵えた手の込んだ食事です。食事の間もアブラハム自身が給仕をするもてなしようです。
アブラハムにとっては通りすがりの旅人でしたが、この話を読み進めると、この三人はただの旅人ではなく、神からアブラハムに遣わされた特別な者たちでした。最初は人間のように描かれていますが、途中からは天使のようでもあり、主なる神ご自身のようでもある不思議な存在です。
訪問の目的は、アブラハムとサラの間に男の子が生まれるという知らせを告げるためでした。長年、跡継ぎとなる実の子がいないこの老夫婦には、かつて神が告げた約束、「あなたの子孫は星の数のようになる」という約束が実現する第一歩となる嬉しい知らせです。しかし、嬉しい知らせではありましたが、人間的に考えれば、到底実現するはずもないような知らせでした。それを天幕の中で聴いていたサラは、秘かに笑いました。
サラが笑ったのは、自分が老齢で子どもを産むなど不可能だったからというばかりではありません。実はこのアブラハムとサラの夫妻は、神の約束を自分たちなりの方法で実現しようと、女奴隷であったハガルにアブラハムの子どもをもうけさせます。計画通りにことが運んだかのように見えましたが、子どもを産んだハガルとサラの人間関係が微妙なことになってきました。とうとうそれに耐えきれなくなったサラは夫アブラハムにハガルとその子のことで解決を迫ります。
そんな苦い経験をしたばかりのサラにとっては、子どもの話はもうこりごりだという思いもあったのかもしれません。
しかし、この使いたちは、サラの秘かなな苦笑を見逃しません。ここから突然聖書は、三人の使いではなく、主である神ご自身の言葉を記します。
主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。」
「主に不可能なことがあろうか」と強く語る神に、この夫妻は出会います。
もちろん、アブラハム夫妻は神が全能の神であることを知らなかったわけではありませんでした。頭では信じていても、ことあるごとに、不可能な現実の方が、全能の神よりも優位を占めていたのです。
この時は、まだ約束は実現したわけではありませんでした。しかし、この神の強い言葉の中に、アブラハムは全能者である神をしっかりと受け止めるきっかけを見出したのです。
この話を振り返ると、アブラハムは全能の神と出会うために三人の旅人を呼び止めたわけではありませんでした。しかし、神はどんな機会を捉えてでも、ご自身がどんなお方であるかを教えてくださいます。だからこそ、日々の何気ない生活の中で神に出会うその機会を軽んじてはならないのです。
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