聖書を開こう 2023年6月15日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  信仰への旅立ち(創世記12:1-9)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 旧約聖書の一番最初の書物「創世記」の中にアブラハムという人物が登場します。もともとの名前はアブラムと呼ばれていました。この人はいろいろな意味で「信仰の父」と仰がれる人物でした。

 イスラエル民族にとって、自分たちの祖先にアブラハムがいるということは非常な誇りでした。ヨハネによる福音書8章33節に登場するユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」と言い切って、アブラハムを先祖に持つ自分たちを誇らしげに語っています。

 同じようにクリスチャンにとっても、アブラハムは血のつながりを超えた信仰の父と仰がれる人物でした。パウロはローマの信徒への手紙4章12節で「彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです」と語っています。

 きょうはそのアブラハムが神からの召命を受け、約束の地へと旅立つ聖書の話から共に学びたいと思います。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 創世記12章1節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷
 父の家を離れて
 わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」

 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき75歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。

 アブラムはカルデアのウルを故郷とし、三人兄弟の長男として生まれました。弟のハランはロトを残して、父親のテラよりも先に故郷のウルで亡くなっています(創世記11:27以下)。

 父親のテラは後にアブラムとロトを含む一族を伴ってウルからハランに移住します。きょうの個所は、父親のテラが205年の生涯を終え、ハランの地で亡くなった後の出来事です。そんなとき、まさに神からの召命の声をアブラムは耳にします。

 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」

 この神からの召命がなければ、アブラムには二つの選択肢がありました。ひとつは自分の生まれ故郷であるカルデアのウルに戻るという選択肢です。ウルは自分の生まれ故郷であるばかりか、弟ハランが亡くなった場所であり、また、もう一人の弟ナホルが住み続けている場所です。自分の親族がそこにおり、自分もかつて生活を送っていた土地です。父親の死を契機に再び故郷のウルに戻るという選択肢は、決して悪い選択肢ではなかったはずです。

 もう一つの選択肢は、父親のテラと共に移住してきたハランの地にそのまま住み続けるという選択肢です。ハランの地はアブラムにとっては第二の故郷であり、既に生活の基盤が置かれている土地です。今ある生活を変えないことは、一番簡単な選択肢です。

 しかし、人間的に考えられる安全な選択肢に対して、おそらくアブラムが考えもしなかった道を神は示されます。それは故郷カルデアに戻ることでもなく、今安住の地として住んでいるハランに留まることでもなく、神が新たに示す土地に移住するようにという道でした。

 この神からの召しを受けたとき、アブラムはすでに75歳であったと創世記は記しています(創世記12:4)。日本流に言えば古希の70歳を過ぎ、まもなく喜寿を迎える年です。その年齢になって新しいことにチャレンジするのには二の足を踏むでしょう。

 もちろん、アブラムの生涯は175年でしたし(創世記25:7)、父親のテラも205歳まで生きた人ですから、75歳はまだまだ人生の半分もいっていない年齢です。しかし、これはあくまでも結果論にすぎません。その時のアブラムにとって自分があと何年生きるかなど分かるはずもありません。現に弟のハランは自分よりも先に亡くなっています。そういう意味では、移住した先で一族への責任を果たすこともできないまま、一族を路頭に迷わせてしまうというリスクもありました。

 この神から受けた召命には約束が伴っていました。

 「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。 地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

 しかし、この約束の言葉に何か保証があったというわけではありません。敢えて言うなら、この約束の言葉をお語りになった神ご自身が保証であり、その保証は信仰によってしか受け取ることができないものです。

 アブラムがこの神からの召命を受けて旅立つことができたのは、まさに神の言葉を信仰によって受け止めたからにほかなりません。アブラムにとってリスクを回避する最大の道は、この神に従うこと、これに勝るリスクの回避はないと確信していたからです。それは、この時初めてとったアブラムの信仰的な決断ではなかったでしょう。日頃から神に信頼し、神と共に歩み、様々な小さな試練の中で神からの助けを経験していたからこそできた信仰の決断です。

 イエス・キリストは荒れ野での試練をお受けになったとき、申命記8章3節の言葉を引用して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とおっしゃいました。アブラムもまたまさに神の口から出る約束の言葉を糧として、それを信仰によって受け止めながら生きてきた人です。アブラムが信仰の父と呼ばれる理由がここにあります。

 見方を変えるなら、神は絶えず信仰へと召してくださっているということです。それは今のわたしたちに対しても同じです。

 アブラムがどれほど神に信頼して歩んでいるのかは、アブラムの旅の中に如実にあらわれています。アブラムは行った先々で祭壇を築き、神を礼拝しています。アブラムにとってこの旅の道のりは、神と共に歩む道のりであり、神が確実に伴ってくださる旅です。おそらくアブラムにとって、この旅立ちは「自分の決断」という意識よりも、神への信頼に押し出され、神の口から出る一つ一つに言葉によって生かされた旅立ちということができるでしょう。

 神は私たち一人一人に対しても、この信仰の旅立ちへと招いてくださっているのです。

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