聖書を開こう 2023年6月8日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  人は何ものなのでしょう(詩編8:2-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「満天の星空」と言う言葉があります。天空を埋めつくした星が、まるで降ってくるように見えます。しかし、今では実際の生活の中で満天の星空を見る機会はほとんどありません。それは決して宇宙から星がなくなってしまったからではありません。真夜中にも煌々と明かりがついている現代社会では、星の輝きが薄れてしまっているからです。大気の汚染も星が見えないことに影響しているかもしれません。それでも、空気が澄み切った冬の夜空では、数多くの星を見ることができます。

 「満天の星空」とまでは行きませんが、わたしも山奥のキャンプ場で夜空を埋めつくすような数の星を見たことがあります。その日は月明りもなく、足元さえおぼつかないほどの暗闇が覆っていました。漆黒の暗闇とは、こういうのを言うのだろうと思ったほどでした。

 しかし、目を天空に向けると、そこには無数の星が輝いています。しかも、目が慣れるにしたがって、見える星の数はどんどん増えていきます。広がる宇宙と星を眺めていると、人間の存在の小ささをしみじみと感じます。

 今日これから取り上げようとしている詩編には、同じように星空を眺めた一人の信仰者の思いが記されています。その詩編の中で、この信仰者は、「人の子は何ものなのでしょう」と問いかけます。この詩編の作者が見ていたものは、しかし、宇宙の大きさと自分の小ささだけではありませんでした。そこには創造者である神を信じる信仰者の視点があります。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 詩編8編2節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

  主よ、わたしたちの主よ
  あなたの御名は、いかに力強く
  全地に満ちていることでしょう。

 天に輝くあなたの威光をたたえます。
 幼子、乳飲み子の口によって。
 あなたは刃向かう者に向かって砦を築き
 報復する敵を絶ち滅ぼされます。

 あなたの天を、あなたの指の業を
  わたしは仰ぎます。
 月も、星も、あなたが配置なさったもの。
 そのあなたが御心に留めてくださるとは
  人間は何ものなのでしょう。
 人の子は何ものなのでしょう
  あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものをすべて治めるように
  その足もとに置かれました。
 羊も牛も、野の獣も
 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。

  主よ、わたしたちの主よ
  あなたの御名は、いかに力強く
  全地に満ちていることでしょう。

 この詩編の特徴は、出だしの言葉と結びの言葉が、まったく同じであるということです。そこにはこう記されています。

 「主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。」

 この信仰の告白は、この詩編の作者が自分の信じる神について普段から抱いている確信の言葉です。神の御名の偉大さは、この詩編の作者が幼少の頃から同じ神を信じる人々から聞かされてきた事柄です。しかし、今、まさに自分の体験の中でその信仰を告白しています。と同時に、思いは神への賛美へと自然に向かっています。

 「天に輝くあなたの威光をたたえます。」

 「天に輝く威光」とは、まさにこの詩編の作者が仰ぎ見ている宇宙の星の輝きを思わせます。しかし、この詩編の作者にとって、星は神がお造りになった被造物の一つにすぎません。この詩編の作者が見ているのは、星の輝きの不思議さではなく、それをお造りになった神の創造の御業の偉大さです。そういう意味で、神の御名の力強さ、全地に広がるその偉大さを、目に見える被造物の背後にこの詩編の作者は心の目で見ているということができます。

 その詩編の作者の眼差しは、幼子、乳飲み子に向かいます。

 「幼子、乳飲み子の口によって」というこの句がどこにかかるのか、二通りに理解できるように思います。

 ひとつは、詩編の作者自身と共に、幼子、乳飲み子の口によっても、神の威光はたたえられている、という理解です。具体的に幼子や乳飲み子が神の威光をたたえるとは、どういう状況なのかは、説明が難しいかもしれません。しかし、この詩編の作者の耳には、屈託のない子どもたちの笑い声さえも、神への賛美と聞こえるのかもしれません。幼子は何も理解できていないのではなく、幼子ゆえに神への信頼を無条件に表現できるとも言えます。

 イエス・キリストはマタイによる福音書の中で、ご自分がなさった不思議な業を見て、子どもたちまでもが「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立てた祭司長や、律法学者たちに対してこうおっしゃいました。

 「あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」(マタイ21:16)

 ここで引用されている聖書の個所は明らかにこの詩編8編です。「幼子、乳飲み子の口によって」に続く言葉は「賛美を歌わせた」と、そのように理解されていたことが分かります。

 もう一つの理解は、後に続く言葉にかけて読む読み方です。

 「幼子、乳飲み子の口によって、あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます。」

 つまり、神は幼子の口によってさえも敵を滅ぼすことのできるお方であるという驚きです。人間にとっては圧倒的に広大な宇宙も、また、手強く見える敵も、神にとっては幼子で十分対処できる程の存在でしかない。言い換えれば、それほどに神の御名の威光は偉大だということです。

 ここで、再び作者の目は天に向けられます。

 「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。」

 天空やそこに置かれた月や星を見れば見るほど、この詩編の作者には、それをお造りになった創造主である神の計り知れない知恵に圧倒されます。

 大宇宙を前にして、自分の小ささを感じることは誰にでもあることですが、この詩編の作者はその大宇宙をお造りになった神の緻密な知恵と偉大な力に圧倒され、その神が心に留めてくださる人間とは何者なのかを思い始めます。

 確かに人間は小さな被造物にすぎません。しかし、その小さな存在にすぎない人間に、神は特別な配慮を示してくださいます。

 この詩編の作者の心には、「自然界の支配者であり王者である人間」という考えはありません。

 ただ、神の恵みによって栄誉と特権が与えられ、他の被造物の世話を委ねられた責任ある存在としての人間の姿です。そこには神の恵みに対する感謝と畏敬の思いが前面に出ています。

 同じ信仰を持つ者の一人として、また一人の人間として、わたしたちもまたこの責任ある使命に招かれています。それは、罪によって神の被造物を破壊する生き方ではなく、神によって造られた世界を神と共に維持し、実りを感謝と喜びをもって受け取ることです。

Copyright (C) 2023 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.