聖書を開こう 2023年6月1日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  豊かな賜物と教会の一体性(1コリント12:4-11)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の中にはいろいろな人が集まっています。それぞれに豊かな賜物が与えられ、その与えられた賜物によって教会全体が豊かに建て上げられていきます。

 しかし、この神から与えられた霊的な賜物について、正しい理解が欠けてしまうと、とんでもなく傲慢になったり、あるいは、逆に意味のない自己卑下の態度に陥ってしまいます。コリントの教会で起こっていたことは、正に特定の霊的な賜物をめぐってのつまらない争いでした。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 コリントの信徒への手紙一 12章4節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には”霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ”霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ”霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の”霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の”霊”の働きであって、”霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」

 パウロはコリントの教会で起こっている霊的な賜物をめぐる問題を解決するために、かなりの分量をこの手紙の中で割いています。

 コリントの教会で直接に問題になっていたのは、数ある霊的な賜物のうち、「異言」と呼ばれる賜物であることは、最後までこの手紙を読めば明らかです。しかし、パウロはそのことを直ちに取り上げないで、まずは霊的な賜物一般について、広く問題を取り扱おうとしています。霊的な賜物を広く知ることによって、個々の賜物について、正しく理解できるようになるからです。

 そこでパウロは霊的な賜物とその源泉について、まず大切な点を書き記しています。

 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」

 「〜はいろいろありますが、同じ〜です」という文章が三度繰り返されています。「賜物」「務め」「働き」は色々あります。その具体的なリストについては後で述べられている通りです。しかし、その源泉は「同じ霊」「同じ主」「同じ神」なのです。「同じ霊」というのは「神の霊」、つまり聖霊のことです。

 霊的な賜物を、恵みとして与えられたものと見るとき、それは「賜物」ということができます。また、その与えられた賜物を用いて互いに仕えるものであると理解するときに、それは「務め」あるいは「奉仕」と呼ばれます。さらにまた、それが力ある業として結果を残すとき「働き」と呼ばれます。要するに霊的な賜物を色々な側面から描いているわけですが、それらは何よりも父・子・聖霊の三位一体の唯一の神から来るものであると言う点で、源泉は一つです。

 パウロはこうした霊の賜物や務めとして、具体的なリストを挙げています。これと同じようなリストは、パウロのほかの手紙の中でも出てきます。たとえばローマの信徒への手紙12章6節以下。エフェソの信徒への手紙4章7節以下。それから、このコリントの信徒への手紙一には、きょうお読みした箇所のほかに12章の28節以下にも出てきます。

 一つ一つの賜物や働きについて、きょうはこと細かく説明はいたしません。ただ、一つだけ注意しておくべき点は、これらのリストはどれもすべて全く同じではありません。つまり、パウロはここで霊的な賜物をすべて取り上げているわけではないということです。いくつかの例を挙げているに過ぎません。ただし、他の手紙のリストと違って、この手紙のリストには「病気を癒す力」「奇跡を行う力」「異言を語る力」など今日でいえば超自然的な奇跡的な賜物が列挙されています。しかも、それらが列挙されるのは、順番から言うとおしまいの方です。このことは全くの偶然ではないと思えます。パウロは奇跡的な賜物がコリントの教会で特に問題を起こしているということを見抜き、ここで、わざわざ最後にそれらの賜物を列挙したのでしょう。

 さて、パウロはこのリストを挙げるときにも、わざわざ「同じ霊によって」という言葉を繰り返し、霊的な賜物の源泉が神の聖霊であることをくどいほどに指摘しています。そして、駄目押し的に「これらすべてのことは、同じ唯一の”霊”の働きであって、”霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」と結んでいます。

 つまり、それらは聖霊が思うがままに各自に恵みとして分け与えたものですから、各人は恵みとして謙虚にそれを受け止めなければなりません。誰一人として、どんな霊的な賜物についても誇ることは許されないということです。決してある賜物が他の賜物よりも優れているというわけでもなければ、それを与えられた人が、別の賜物を与えられた人よりも素晴らしいというわけでもありません。

 また、7節のところで「一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」といわれています。そのように、いろいろな霊的な賜物が目指しているのは、全体の益なです。霊的な賜物が与えられたのは、その人の益のためではなく、教会全体の益のためなのですから、一つ一つの賜物をどう用いるのかは、いつも全体とのバランスの中で考えられなければなりません。このバランスを失うときに、一つの賜物だけが評価を受け、同じ聖霊が与えてくださった他の霊的な賜物がないがしろにされてしまうのです。一人一人に与えられた賜物が一つとして無駄にされずに、教会全体の益のために用いられるときに、教会全体が豊かに成長することができるのです。

 パウロはこのことを、人間の体に譬えて説明しています。人間の体はひとつですが、それを構成する部分はいくつもあります。目や口や耳や鼻、手や足、数え出せばキリがありません。それらの器官に優劣はありません。目だけで十分ということもなければ、耳だけで十分ということもありません。また、それらの器官は決して自己主張することもありません。体という全体にとって調和のとれた働きをします。

 教会は「キリストの体」としばしば言われますが、その教会はそこに集まる一人ひとりの霊的な賜物によって豊かに構成されています。この聖霊が与える一人ひとりの賜物が尊重され、全体の益のために豊かに用いられるときにこそ、キリストの体である教会はひとつの体のように調和のとれた教会となることができるのです。

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