聖書を開こう 2023年5月11日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  主の御手にゆだねる(詩編32:1-6)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書を読んでいて、必ず出てくる言葉の中に「罪」や「咎」、「罪過」という言葉があります。聞いていて決してうれしい言葉ではありません。それが自分に関わる問題だと指摘されると、むきになって否定したくなる言葉です。

 しかし、その反面、この言葉の意味を一旦理解すると、まさにこれは自分に関わる問題だということに気が付きます。とりわけ、日頃から良心の呵責を何かにつけ感じている人にとっては、いっそう敏感にそれを感じると思います。

 聖書が「罪」や「咎」、「罪過」という言葉を使って人間の姿を描くのは、ただ単にそれが現実であることを知らせるためだけではありません。それがもたらす悲惨さから人間を解放し、神との正しい関係に修復するためです。

 そもそもヘブライ語の「罪」という言葉は「的はずれ」という意味からくる言葉だといわれています。神の御心に沿って生きるはずの人間が、どこか道を外れて的外れな生き方をしている、それが罪だからです。

 その的外れな生き方に鈍感な人は何も感じないかもしれません。しかし、この的外れな生き方に苦しみを感じる人にとっては、罪からの解放はまさに福音です。

 きょうこれから取り上げようとしている詩編32編は、罪を告白し、神から罪の赦しを受けて生きる喜びにわたしたちを招いています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 詩編32編1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 いかに幸いなことでしょう
 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
 いかに幸いなことでしょう
 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

 わたしは黙し続けて
 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
 御手は昼も夜もわたしの上に重く
 わたしの力は
   夏の日照りにあって衰え果てました。

 わたしは罪をあなたに示し
 咎を隠しませんでした。
 わたしは言いました
 「主にわたしの背きを告白しよう」と。
 そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
 赦してくださいました。
 あなたの慈しみに生きる人は皆
 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
 大水が溢れ流れるときにも
 その人に及ぶことは決してありません。

 この詩編の作者は、人間の幸いについて語りだします。この詩編の作者が語る祝福に満ちた人生とは、裕福な暮らしでもなければ、たくさんの友人に囲まれた暮らしでもありません。それは神への背きの罪が赦され、その罪を覆っていただいた人生だと語ります。この詩編の作者にとって、人生の最大の重荷は、神に罪を告白しないことから来る心の重荷でした。その重荷こそが、人生を台無しにしてしまっているというのです。たとえ、はた目から見て成功しているように見える人生であっても、この重荷が心を支配する限り、心の内は不安と苦しみに満ちた人生です。

 この詩編の作者もこうした不安と苦しみの中から、罪を告白し、神からの赦しを頂くことが、どれほどの喜びと平安をもたらすかを経験した一人です。

 この詩編の作者が言う「主に咎を数えられず、心に欺きのない人」とは、決して何の罪も犯さない正しい人という意味ではありません。神によって咎を数えられない人とは、犯した罪をもはや神がいちいちあげつらわないほどに完全に罪を赦された人のことです。心に欺きのない人とは、自分を偽って神の前にあたかも正しい人のように生きない人です。罪を罪として認め、偽ることなく神にその罪を告白する人のことです。そういう生き方こそが、どれほど祝福に満ちた人生であるか、この詩編の作者は自分の体験の中から語ります。

 過去の自分を振り返って、この詩編の作者は語ります。

 「わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。」

 自分の犯した罪は自分が一番よく知っていながら、しかし、それを隠そうとし、あるいは、自分を正当化しようと無理な論理を振りかざします。そんな努力をすればするほど、心の内から平安は消え去っていきます。人の目はごまかせても神の目を欺くことなどできないことは、自分自身が一番よく知っているからです。ついには神の前に正直に自分の罪を告白することを思い立ちます。

 それは自分の罪の問題を自分で解決しようとあがくのではなく、慈しみと憐れみの神の前に自分自身を委ねることです。ここにこそ、心に平安を頂く秘訣があり、祝福に満ちた人生の一歩があります。

 この詩編の作者は語ります。

 「わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。 わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。 そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。」

 神はすべてをご存じのお方です。神から隠れて生きることなどできません。神の恵みに信頼して神にすべてを打ち明け、赦しを頂くことが大切です。

 人類最初の罪人であったアダムとエバは、エデンの園で神の前から身を隠しました。罪の告白を促すためにおっしゃった神の問いかけ、「どこにいるのか」という問いかけに、彼らは、何とか自分を正当化しようとし、その責任を他のものに転嫁しようと、とんちんかんな答えを繰り返しました。それでも神は忍耐深く耳を傾けてくださるお方です。まして、自分の罪を告白する者たちを憐れまないはずがあるでしょうか。

 新約聖書のヨハネによる福音書には、有名な言葉があります。3章16節以下に記された言葉です。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 この神の愛に依り頼んで、このお方に自分の罪の問題を委ねるときにこそ、心に平安が与えられるのです。

 この詩編の作者はこのような罪の告白にわたしたちを招いています。

 「あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」

 「あなたを見出だしうる間に」と言う言葉には、わたしたちに真摯な態度であるようにと促しています。先延ばしにすることに何の意味もありません。今がその機会と思って神の恵みにすがることが大切です。

 こうして神との関係が修復されるとき、もっとも幸せな生き方を歩むことができるのです。

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