聖書を開こう 2023年5月4日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  不当な苦しみを受けるとき(1ペトロ2:19-25)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 教会の暦、「教会暦」の上では、今週はキリスト復活後第4主日から始まる週の途上にいます。きょう取り上げる聖書の個所も、教会暦で使う聖書日課から取り上げようとしています。ここにはクリスチャンとして受ける不当な苦しみと、キリストがお受けになった十字架の苦しみとが対比され、その苦しみにどのように向き合って生きていくのかが記されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 2章19節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

 今、お読みした個所は、イエス・キリストを信じる者が、この世を生きるときに、どのように神の御心にかなった生活を送るべきかを記した個所です。それぞれ復活のキリストを信じてクリスチャンとなるのですが、それによって社会的な立場が一変してしまうというわけではありません。

 神との関係では、キリストを通して神の子とされ、もはや罪の奴隷でもなく、教会の中では、男も女もなく、異邦人もユダヤ人もない、自由の中に生きています。

 しかし、社会との関係で言えば、相変わらずローマ皇帝や地方の行政官のもとに暮らしていました。周りにはまことの神を知らない人々が多数派です。家族の一員としても、それぞれの立場にとどまりながら、信仰者として生きていました。もちろん、家族に仕える使用人も含めて家族全員で洗礼を受けた場合には、全員がまことの神を畏れつつ、互いを尊重しあう家族関係が生まれたことでしょう。しかし、自分一人が先にキリストを信じるようになったということもあったかも知れません。そうした一人ひとりが置かれている立場を思いながら、ペトロはこの手紙を記しています。

 特にきょう取り上げた個所は、クリスチャンとなった家の使用人たちに向けて書かれた箇所です。しかし、そこに記されていることは、当時の家の主人と使用人との関係にとどまらず、あらゆる人間関係に適用するすることができるように思います。そういう意味で、そこに記された事柄は、今のわたしたちにとっても大切な教えを含んでいます。

 きょう取り上げた個所には「不当な苦しみを受ける」場合について、クリスチャンとしてどう対処するべきかが記されています。そもそも、「不当な苦しみ」というのはどういうことが想定されているのでしょうか。直接の文脈の中では、家の主人から使用人が受ける、本人には何の落ち度もない苦しみです。それは単に苦痛を与えるその人の気まぐれであるかもしれませんし、悪意に満ちたいじめであるかもしれません。あるいは、誰かの罪の濡れ衣を着せられて受ける苦しみであるかもしれません。いずれにしても、そのような不当な苦しみに遭うときに、それを信仰的にどう受け止めるかがここでは記されています。

 ペトロはまずこう述べています。

 「神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」

 不当な苦しみが神の御心にかなったことだというのは、少し乱暴なように聞こえるかもしれません。この言葉は少し丁寧に説明する必要があります。

 ペトロがここで語っていることは、「神に対する意識」がその大きな前提にあります。新共同訳聖書では「神がそうお望みだとわきまえて」と訳されている部分がそれにあたりますが、新しい翻訳の「聖書協会共同訳」ではその部分を「神のことを思って」と訳しています。これは信仰者にとってとても大切な姿勢です。どんなことも神と無関係な出来事として起こっているわけではありません。すべてが神のみ手の中にあると考える姿勢が大切です。しかも、すべてをご存じであられるこのお方は、正しい審判者でもあられます。そう信じるときに、この世の人たちとは違った視点から自分が生きる世界を見ることができます。

 「それは御心に適うことなのです」と訳されている部分ですが、その部分は「これは神の恵みである」という意味です。つまり、不当な苦しみを受けても、神のことを思いながらその苦しみを受け止めるなら、それは神の恵みなのだ、というのです。不当な苦しみというのは、どう考えても恵みにはつながりません。しかし、神がいてくださり、すべてのことが神の御手の中で起こっていることを意識するときに、その不当な苦しみさえもが恵みとして受け取ることができるようになるのです。

 「恵みだ」という考えは、20節にも繰り返し出てきます。新共同訳聖書では「これこそ神の御心に適うことです」と翻訳していますが、そこでも「これこそ神の御前に恵みだ」と言う表現でペトロは語っています。不当な苦しみを神が与えてくださった恵みであるという信仰的な発想の転換もそうですが、その不当な苦しみに耐えることができる力もまた神から与えられる恵みであると考えるときに、いっそう大きな力を与えられます。

 ペトロはさらに進んで、こう述べています。

 「あなたがたが召されたのはこのためです」。

 不当な苦しみを受けるためにあなたがたは召されたのだ、というのは無茶苦茶なことを言っているように聞こえるかもしれません。「このため」というのは、「不当な苦しみを受けること」を指しているのではなく、そのような仕打ちに遭っても、それを恵みとして受け止め、耐え忍んで行くことを指しているのでしょう。

 というのも、その模範をイエス・キリストご自身がわたしたちに残してくださっているからです。十字架にお掛になるとき、イエス・キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」。このような信仰的な生き方にわたしたちは召されているのです。

 ただ、イエス・キリストとわたしたちが違っているのは、キリストが耐え忍ばれたのは、わたしたちの罪の贖いのためでした。わたしたちは誰かの罪を償ったり、贖うことはできません。そういう意味では、キリストの受けた苦難とは比べることはできません。

 このお方の苦難と十字架を通して、羊のようにさまよっていたわたしたちが、「今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。もし、不当に苦しめる相手が神を知らない人であるならば、その人のためにも魂の牧者が必要です。そのためにも、忍耐が必要なのです。

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