メッセージ: 死の影の谷を行くときも(詩編23)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょう取り上げようとしている詩編23編は、150編ある詩編の中で、とてもよく知られた詩編の一つです。神と自分との関係を羊飼いと羊の関係になぞらえながら、主である神への信仰と信頼を美しく歌い上げています。
この詩編が書かれたのは3千年近くも昔のことですが、しかし、歴史を経てもなお多くの人々を慰め励ましています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書 詩編23編です。新共同訳聖書でお読みいたします。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
この詩編は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉で始まります。「わたしの」という言葉はいちいち翻訳されていませんが、主は「わたしの」羊飼いであるという告白から始まります。
そう告白するこの詩編の作者には、揺るぐことのない安心感があります。なぜなら、自分はこの世界に独り放り出された人間なのではなく、自分を世話し、守り、導いてくださるお方がいるということを確信しているからです。
物事が順調に行っているとき、たとえ独りぼっちだとしても人は孤独を感じることはあまりないかもしれません。しかし、行き詰った人生を送るときには、たとえ多くの人に囲まれていたとしても、自分の気持ちを理解し、寄り添ってくれる人を見つけることができずに、孤独感に打ちのめされるときがあります。
この詩編の作者が、どんな状態のときにこの詩を詠んだのかは分かりませんが、「主はわたしの羊飼いである」という確信は、この詩編の作者がそれまで生きてきて至った確信であると思います。決して昨日今日思いついた考えではないでしょう、人生を振り返って、「自分は決してひとりではない!」「主がわたしの羊飼いなのだ!」という思いに至ったのだと思います。そういう意味で、この詩編の作者の言葉には、多くの信仰者が共感を覚えます。わたしたちには、確かにわたしたちを心にかけ、世話をし、導いてくださるお方がいます。
その確信から、「わたしには何も欠けることがない」という安心感がこの詩編の作者には生まれています。窮乏の中にあっても、主が自分に伴っていてくださることを信じるときに、平安な思いで日々を送ることができるのです。
続いてこの詩編の作者は、主である神がわたしたちを取り扱ってくださる様子を、羊飼いが羊を世話するような姿になぞらえて表現します。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
羊は羊飼いに導かれて、牧草や水にありつくことができます。羊は自分で勝手に食べ物を見つけ、勝手に生きていけるような動物ではありません。羊飼いの正しい導きの中で生きることができるのです。
この世の羊飼いがそうだとするなら、わたしたちを導いてくださる主は、なおさらのことです。なぜなら、子のお方は天地の造り主であり、わたしたち自身の創造者であられるからです。すべてのことは、このお方の御手の中にあります。この世の羊飼いには予期せぬことが起こるかもしれません。しかし、すべてをご存じである神には、偶然や突然の出来事はありません。そういうお方が、わたしたちを正しく導いて生きる道を備えてくださっています。
さらに、この詩編の作者は言います。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
羊は近眼で、いちど群れからはぐれてしまうと、自分では戻ってくることができない動物だといわれています。迷い出た羊の気持ちになれば、それこそ死の陰の谷を行くような気持ちでしょう。野獣が自分を襲えば、抵抗することもできません。
しかし、そういう羊のために、羊飼いは迷い出た羊を探し求め、時には猛獣と戦うこともあります。この世の羊飼いがそうであるなら、わたしたちを探し求め、守ってくださる神はなおさらのことです。
おそらく、この詩編の作者が「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」と告白する背景には、作者自身のこれまでの体験があったことでしょう。数々の苦難を乗り越える中で、いつも神の御手を身近に感じることができたからこそ、このような告白をなすことができるのです。
しかし、共にいてくださる神は、いつも優しく接してくださるばかりではありません。この詩編の作者は「あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける」と告白します。
羊飼いは羊が迷い出そうになった時には、厳しい態度で羊を導きます。神もまたわたしたちを痛みや苦しみを通して正しい道へと導いてくださいます。この詩編の作者はそれを決して不愉快なこととは受け止めません。そこに神の導きを確信し、正しい道を歩み続けることができる喜びを見出しています。
そうであればこそ、この詩編の作者は確信をもってこの詩編をこう結びます。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
「主はわたしの羊飼い」と始まるこの詩編は、単に神がどのようなお方であられるのかを描いているのではありません。そうではなく、このお方に寄り頼んで生きることの幸いを描いているのです。
わたしたちは、自分の人生すら正しく導くことができない存在です。「主はわたしの羊飼い」という告白の中には、そういう自分に対する認識も含まれています。神にすべてを明け渡し、神に信頼して歩むときに、魂の平安と安全とを頂くことができるのです。
ヨハネによる福音書の中で、イエス・キリストは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっています(ヨハネ10:11)。主イエス・キリストが今わたしたちの羊飼いとして、わたしたちを導いてくださっています。
わたしたちには自分の人生についてわからないことがたくさんあります。明日のことさえ知ることができません。しかし、すべてを知っておられるイエス・キリストがわたしたちとともに歩んでくださり、わたしたちを導いてくださいます。わたしの羊飼いであるこの主に信頼して歩んでいきましょう。