メッセージ: キリストの復活と救いの希望(1ペトロ1:3-9)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教にとって「復活信仰」は中心的な教えであるといわれています。新約聖書に収められている手紙のほとんどを書いたパウロは、コリントの信徒へ宛てた第一の手紙の15章でこう記しています。
「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリント15:14)
それほどにパウロはキリストの復活の重要性を強調しています。また同じ手紙の中で、キリストが復活されたことは、福音そのものであり、最も大切なこととして紹介されています。
賦活の重要性を取り上げるのはパウロばかりではありません。きょう取り上げるのはペトロの手紙ですが、そこにもまた、キリストの復活がもたらす希望について記されています。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ペトロの手紙一 1章3節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
きょう取り上げるこの個所は、復活がもたらす希望と励ましについて力強く、また美しい言葉で記されています。とりわけ、試練や悩みの中にある者たちにとって生きる希望と勇気を与える言葉です。
ペトロはこの手紙を書くにあたって、主イエス・キリストの父である神をほめたたえています。「わたしたちの父である神」とは言わずに、「主イエス・キリストの父である神」と呼びかけているのは、ちょっと不思議に思うかもしれません。しかし、この父であられる神は、決してわたしたちとは無関係なお方なのではありません。
その父である神は、豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださったと続きます。
イエス・キリストの父であるお方は、豊かな憐れみによってわたしたちを「新たに生まれさせる」あるいは「再び生まれさせる」とペトロは記します。この言葉には、イエス・キリストの父であられるお方がわたしたちの父となってくださり、わたしたちを生んでくださったという含みがあります。ペトロは最初から「わたしたちの父である神」とは記さずに、敢えて「イエス・キリストの父である神」が、新たにわたしたちの父となってくださったと記しています。
イエス・キリストの父であるお方が、わたしたちの父ともなってくださったことに関して、それが神の豊かな憐れみによることであるとペトロは記しています。神がわたしたちの父となってくださったことは、当然のことでは決してありません。罪によって神のもとを離れていったわたしたちを、神は豊かに憐れんでくださり、再びわたしたちを子どもとして迎え入れてくださったのです。
それは罪の結果神の愛から引き離され、死を恐れる者として再び生まれたのではありません。そうではなく、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」「生き生きとした希望」へと生まれさせてくださったのです。
ペトロはここでキリストの復活の意義をそのように捉えています。キリストの復活があって初めてわたしたちは「生き生きとした希望」に生きることができるのです。なぜなら、罪のあるところには常に死に対する恐れがつきまとっているからです。ところが、キリストは信じる者すべての罪を十字架の死によって贖い、そればかりか、ご自身、死の力を打ち破られて復活されました。そこにわたしたちの「生き生きとした希望」の根拠があるのです。
ところでペトロはここで単に「希望」とは記さずに「生き生きとした希望」という表現を使って、この希望がどんなものであるかを表しています。「生き生きとした」とは、「生きている」という意味の言葉ですが、それは「死んでいる」に対立した言葉です。「希望」というのは本来「生きている」ものでなければ意味がありません。「死んでいる希望」というのは言葉の矛盾です。
復活のキリストをとおして与えられる希望に出会うとき、今まで希望と思っていたものが色褪せ、死んでしまったように感じられる、そういう思いがこの「生き生きとした希望」という表現に表れています。キリストの復活をとおして、この希望に生きるようにと、イエス・キリストの父である神は、わたしたちの父ともなってくださったのです。
この「生き生きとした希望」に生きるとき、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」とされていることにも確信を持つことができます。ペトロはこう記して読者たちを励ましています。
「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」
復活のキリストをとおして、このような希望と確信に生かされているのです。
けれども、この地上での生活が、必ずしも波風のない平穏無事の生活ばかりではないことをペトロは知っていました。なぜなら、罪が完全に取り去られる世界でなければ、そこには様々な問題が起こることは避けられないからです。万物が終わりを迎え、新たに創造される救いの完成のときまで、試練の時が訪れ、悩み苦しみの中で時を待たなければならないこともあります。
しかし、この試練によって悩み苦しむことは決して無意味なことではないとペトロは語ります。
「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」
キリストの復活はその試練を乗り越える力と励ましをもわたしたちに与えてくださるのです。