聖書を開こう 2023年4月6日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  弟子を愛し抜かれた主(ヨハネ13:1-17)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょう取り上げようとしている個所は、主イエス・キリストが弟子たちと最後の晩餐をとろうとしている場面です。ヨハネによる福音書は、この最後の晩餐の場面を他の福音書よりも長く詳しく記しています。

 特にきょう取り上げる箇所は、「洗足木曜日」として知られている個所です。晩餐の始まる前に主イエス・キリストが弟子たちの足をひとりひとり洗って、その模範を示されたからです。

 英語ではこの日のことを「Maundy Thursday」と呼んでいます。Maundyとはラテン語のMandatumという言葉に由来しています。Mandatumとは「戒め」とか「命令」という意味です。イエス・キリストが弟子たちの足を洗い、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とお命じになっておられるからです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 13章1節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 イエス・キリストは、この過越祭を前日に控えて、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。つまり、この過越祭を前に控えて、ご自分の十字架と復活の時が来たことをイエス・キリストははっきりと意識されておられたのです。

 確かにヨハネによる福音書の11章には最高法院の人たちのイエス・キリストに対する困惑が記されています。彼らは口々にこう言います。

 「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 これに対してその年の大祭司は期せずしてこう語ります。

 「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

 イエス・キリストの十字架は、まるで最高法院の議員たちの策略であるかのような書き方です。人間的にはそうであったかもしれませんが、救いの歴史を導く神のとって、キリストの十字架と復活は人間が生み出した偶発的な事件では決してありませんでした。神の深い救いのご計画の中で、着々と進み、イエス・キリストご自身がその時の到来を知っておられたのです。

 そのイエス・キリストが十字架と復活を通して父なる神のもとへとお戻りになる時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛し、この上なく愛された、と聖書は記しています。

 ここには二度も「愛する」という言葉が繰り返されます。しかもただ愛するのではなく、この上なく愛し抜かれるイエス・キリストの愛です。

 人間の愛はしばしばもろい愛です。まるで鏡に写った自分の姿のように、相手が近づけば自分も近づき、相手が離れてしまえば、自分も離れていってしまう愛です。愛するよりも愛されることを、与えるよりも与えられることを求める愛です。相手が裏切れば、そこで愛が終わってしまうような愛です。

 しかし、ここに描かれるキリストの愛はそうではありません。このキリストが愛された弟子たちの中には、やがてキリストを十字架へと引き渡す裏切り者のユダも含まれていました。そのイスカリオテのユダも含めて、イエス・キリストは弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれたのです。

 イエス・キリストはこのご自分の愛を、弟子たちの足を洗うという具体的な形で示されました。食事に招かれた先で、足を洗うのはその家の僕の役割でした。しかし、イエス・キリストは晩餐の主人ではなく、僕のようにふるまわれたのです。愛というものが誰かを自分の支配下に置くことではなく、誰かのために仕え、尽くすことであるとするなら、弟子たちの足を洗うこのキリストの姿こそ、愛を貫き通そうとする姿です、

 このキリストの愛に、弟子たちは十分に値する弟子たちだったのでしょうか。ユダだけがキリストの愛に値しない人間だったのでしょうか。そうではありません。罪ある人間は当然に愛される資格など持ち合わせてはいません。いえ、神の愛は人間の愛とは違って、無条件に示される愛であるからこそ、罪人にも注がれるのです、

 イエス・キリストはおっしゃっています。

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。

 イエス・キリストはこの愛から少しもぶれることはありませんでした。そればかりか、このキリストによって示された神の愛の内を生きるようにとわたしたちを招いておられます。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ヨハネによる福音書13章34節に記されたイエス・キリストの言葉です。

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