聖書を開こう 2023年3月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  わたしをお遣わしください(イザヤ6:1-8)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神様の御用のために働く。これはいわゆる聖職者に限ったことではありません。すべての人は、どんな職業や働きであれ、それを神から召し出されて行う働きとして受けとめること、そのことが大切です。

 きょう取り上げようとしている個所は、預言者イザヤが神から召し出された話ですが、一人ひとり神からの召され方は違っても、この個所は誰にも関係した大切な教えを含んでいます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書イザヤ書 6章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ウジヤ王が死んだ年のことである。
 わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
 主の栄光は、地をすべて覆う。」
 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。
 わたしは汚れた唇の者。
 汚れた唇の民の中に住む者。
 しかも、わたしの目は
 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
 「見よ、これがあなたの唇に触れたので
 あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
 「誰を遣わすべきか。
 誰が我々に代わって行くだろうか。」
 わたしは言った。
 「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください。」

 きょう取り上げた個所は、預言者イザヤが神から召し出されて、その働きを委ねられる場面です。南ユダ王国の王、ウジヤが死んだ年とありますから、およそ紀元前8世紀半ばごろの出来事です。

 ウジヤ王がユダ王国を治めていたころは、国は安定した成長を遂げていたと言われています。まだアッシリアのティグラト・ピレセル三世が台頭する前の時代でしたから、南北イスラエル王国を取り巻く世界情勢の力の均衡は微妙に保たれていました。そんな追い風も手伝ってウジヤは王国の繁栄を享受することができたのでしょう。

 しかし、晩年のウジヤ王について、歴代誌下の26章によれば、祭司しかたいてはならない香をたいて、ウジヤは神の怒りを買いました。それはウジヤ王が「勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた」からだと歴代誌は記しています。

 王の心がそうであれば、民の心も繁栄のために神への思いは鈍くなっていたとしておかしくはありません。さきほどお読みした個所の続きに、民に対して語るべき神の言葉が記されています。

 「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。」

 皮肉なことに、イザヤが遣わされていく民は心をかたくなにして、神のメッセージに耳を閉ざす民なのです。

 こうした背景を心にとめながらイザヤの召命の記事をご一緒に学びましょう。

 このイザヤの召命の記事は、イザヤが見た天上の世界におられる神の御姿の栄光、威厳、清さの描写から始まります。しかし、イザヤが見た神の姿は、地上とは関わりのない天上の世界の出来事ではありませんでした。イザヤが目にし、耳にしたのは天上の世界のようであり、同時にこの地上にまで力が及ぶ神の姿です、

 この記事の中で目を引くのは、この神の栄光、威厳、清さに対して、イザヤの恐れおののく姿が対照的に描かれている点です。

 イザヤはこの光景を目にしたときにこう叫びます。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。 わたしは汚れた唇の者。 汚れた唇の民の中に住む者。 しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

 これはイザヤの通り一遍の謙遜ではありません。それは「罪」という人間が持つ根本的な汚れから来る恐れです。イザヤは神の御前に自分の罪深さを誰よりも理解していました。この神に対する畏怖と畏敬の念こそが、神からの召命に応ずる第一歩です。

 神は罪ある人間を退けて、どんな働きをも委ねないのではありません。そうではなく。この罪ある人間を赦し、清め、用いようとされています。神が与えてくださる働きに対して、罪ある者がそれに相応しくないと感じるこのセンスこそまず重んじるべき感覚です。高慢にも自分が神の御前に相応しい人間だと思いあがってはなりません。

 ウジヤ王が数々の業績を遂げながらも、最後の点で躓いてしまったのは、まさに思い上がりから来るものでした。

 このイザヤの言葉は、罪から来る自分の汚れと、神の御前に相応しくない自分を率直に告白した言葉です。しかし、イザヤは決して神の御前から逃げたり隠れたりしようとはしません。なぜなら、自分が汚れた者であることは、神ご自身が一番よくご存じだからです。

 イザヤは自分の持っている汚れを告白すると同時に、それを誰よりもご存じである神に自分自身を明け渡しています。

 自分がふさわしくない人間であると言って、神の御前から逃げ出すことは簡単です。しかし、本当に大切なことは、罪にもかかわらず自分にこのような幻を啓示してくださる神に、自分自身を明け渡して、神からの次の言葉を待つことです。

 神は御使いを通して、イザヤの罪の赦しと清めを宣言します。

 そのとき、初めてイザヤは自分に対する神の声を聞きます。その声は、「誰を遣わすべきか。 誰が我々に代わって行くだろうか」と問う神の御声でした。もちろん神が誰を遣わそうとしておられるのか、神ご自身が知らないわけはありません。この問いかけは、イザヤの応答を求める問いかけです。

 神から罪の赦しと清めを頂いたイザヤには、もうためらうことも、罪の裁きに対する恐れもありません。神が自分の側に確かに立ってくださるのですから、これより強い味方はありません。

 イザヤは答えます。

 「わたしがここにおります。 わたしを遣わしてください。」

 神だけが本当の意味でわたしたちを押し出してくださるお方です。もし、イザヤが神から罪赦され、清められたことを確信しなければ、神からの呼びかけには応えることができなかったでしょう。また、もしその確信がないままに神の呼びかけに応えるとしたら、イザヤはその職務を決して全うすることはできなかったはずです。

 神は今のこの時も、誰を遣わそうか、とおっしゃって、その呼びかけに応じる人を求めておられます。自分の罪や欠点や不足のために相応しくないと思うときこそ、神のもとに留まって、神の赦しの声に耳を傾けましょう。神はわたしたち変える力をもっておられるお方だからです。

Copyright (C) 2023 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.