メッセージ: 信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐(1テサロニケ1:1-5)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今回はテサロニケの信徒への手紙一の書き出しの部分を取り上げます。この手紙はパウロが書いた手紙の中で最も古い手紙と言われています。と同時に現存するキリスト教の文書としてももっとも古いものです。
しかし、パウロが書いた手紙の中では、それほど重要な文書として取り上げられてきたことがあまりありませんでした。
例えば、ローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙は、宗教改革の原理ともなる「信仰義認」の教え、つまり「律法の行いではなく、信仰によってのみ救われる」とするその 教えを導き出すために大いに用いられて来ました。その後も偉大な神学者や聖書学者たちは、こぞってローマの信徒への手紙を研究して来ました。
しかし、そうした手紙に比べると、テサロニケの信徒への手紙は、分量的にも短く、また、内容的にも現代の教会や神学的な論争に関わる分部があまりにも少ないために、それほど大きな関心の対象となったことがない手紙でした。
けれども、この手紙を最初に受け取った人たちにとっては、どれほど価値のある手紙であったかは言うまでもありません。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 1章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。」
今お読みした個所は、最初の挨拶部分は別として、ギリシア語の原文では一つの文章です。日本語に翻訳する時には適当なところで文章を区切って句読点をつけていますが、本来はよどみなく流れ出た言葉です。
パウロの手紙はどの手紙もほとんどそうですが、差出人と受取人、そして短い挨拶の言葉が記されたあとに、感謝の言葉が続きます。手紙の形式から言えば感謝の言葉を述べている部分です。つまり、2節から5節まで、いっきに感謝の言葉を述べているということです。
ところで、2節の冒頭の言葉は「わたしたちは神に感謝している」という言葉で始まりますが、確かに文法的には文章の終わりは5節ですから、そこまでが感謝の言葉ということになるのでしょう。しかし、続く6節は文法的には前の5節からは切り離されてはいますが、内容的にも、文章の流れから言っても、5節の言葉と密接に繋がっています。こうしてずっとたどっていくと、少なくとも10節までは一まとまりの流れと言うことになります。確かに一旦はそこで感謝の言葉は切れていると思いますが、2章13節で再び感謝の言葉が始まります。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」(2:13)
この言葉は、内容的には6節以下と深いかかわりがありますから、感謝のことばはここまで続いていると考える事ができるかもしれません。とするならば、この手紙は他のパウロの手紙よりもずっと多く感謝の言葉を語っているということになります。
ところで、パウロはテサロニケの教会に関して、どんなことを神に感謝しているのでしょうか。パウロはテサロニケの教会の人たちを思って祈る時に、三つのことを思い起こし、心に留めながら祈っています。その三つのこととはテサロニケの教会の人たちの「信仰の働き」「愛の労苦」、そして「希望の忍耐」という三つのことです。簡単に言ってしまえば「働き」と「労苦」と「忍耐」の三つです。そして、それぞれに「信仰」「愛」「希望」という言葉が修飾語としてついています。
この「信仰」「愛」「希望」というのはとても有名な三つの言葉ですが、それはコリントの信徒への手紙一の13章13節で、「信仰」「希望」「愛」という順番で出てくることで特に有名です。
しかし、このテサロニケの信徒への手紙の中では、「希望」が最後に述べられています。しかも、この手紙の中では単に「信仰」「愛」「希望」とは言わずに「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」と言う具合に、他の言葉を修飾する言葉として登場しています。そして、手紙全体の構成とあわせて考えてみると、この手紙にはテサロニケの教会の人たちが信仰によって働く様子、愛のために労苦する様子、そして、希望をもって忍耐する様子が見事に描かれています。3節に出てくる「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」はパウロがテサロニケの教会の信徒たちのことで神に感謝する動機を与えていますが、それは同時にこの手紙を構成する重要なテーマともなっているのです。
ところで、「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」と原文を直訳しましたが、新共同訳聖書が翻訳しているとおり、それは「信仰によって働くこと」「愛のために労苦すること」「希望をもって忍耐すること」という意味で使っているのでしょう。信仰とはただ止まっているものではありません。それは活動的なものであり、働くものなのです。テサロニケの教会の人たちの信仰は正に生きて働く信仰だったのです。それは愛のために労苦することをもいとわないほどのものでした。こうしたテサロニケの人たちの愛について、パウロはこの手紙の後の方で、こう述べています。
「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。」
パウロをして、そう言わしめるほどの愛だったのです。
さらに、テサロニケの教会の人たちの信仰生活はイエス・キリストが再び来てくださることを待ち望みながら忍耐深く生きる生活でした。確かにこの手紙の4章13節以下を読むと、テサロニケの教会では主イエス・キリストの再臨をめぐって、信仰が動揺するような出来事が起っていました。しかし、それは再び来てくださる来臨の主イエス・キリストに対する希望が失われたと言うものではありませんでした。むしろその逆で、この教会が心からキリストの来臨を希望していたからこそ、出てきた問題なのです。言い換えれば、テサロニケの教会の歩みは来臨の主イエス・キリストへの希望にかかっていたのです。
このテサロニケの教会の「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」にともに倣いたいと願います。
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