聖書を開こう 2023年3月16日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  それでもあなたはわたしの盾(詩編3:1-9)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今回から、聖書のいろいろな個所を取り上げて、ご一緒に学んでいきたいと思います。今回は旧約聖書の詩編から、第3編を取り上げます。この詩編の表題にはダビデ王が、その子アブサロムを逃れたときに詠んだ詩だとされています。

 アブサロムはダビデ王の三男ですが、あるときダビデ王に対して謀反を企て、ヘブロンで兵を挙げます。イスラエルとユダの民はアブサロムを支持し、対するダビデ王を助けたのはわずかの者たちでした。泣く泣くダビデは都を出て落ちのびます。それが今日取り上げる詩編第3編の背景であると、この詩の表題は語っています。

 表題自体は後の時代の人が加えたものだと言われていますから、表題が詩の成り立ちを歴史的に語っているとは言えないかもしれません。しかし、この詩を誰がいつどんな状況でうたったとしても、そこに描かれる信仰者としての心は真実に満ちています。誰もが経験する苦しみの中からの叫びと、神から与えられる平安と希望を歌い上げている点で、多くの信仰者の心に共感を呼び起こします。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は旧約聖書詩編3編全体を取り上げますが、3編の2節〜7節までを新共同訳聖書でお読みいたします。

主よ、わたしを苦しめる者は
  どこまで増えるのでしょうか。
多くの者がわたしに立ち向かい
多くの者がわたしに言います
「彼に神の救いなどあるものか」と。

主よ、それでも
あなたはわたしの盾、わたしの栄え
わたしの頭を高くあげてくださる方。
主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださいます。

身を横たえて眠り
わたしはまた、目覚めます。
主が支えていてくださいます。
いかに多くの民に包囲されても
決して恐れません。

 この詩編は、まず自分の周りを取り囲む敵たちが、その数を増している、というダビデが自分の状況を認識する言葉から始まります。敵対する者の勢力は衰えるどころか、日ごとにその強さを見せつけるかのように、ダビデの命と支配を脅かしています。

 ダビデ王にとって脅威だったのは、自分を取り巻く者たちの数ばかりではありません。彼らが吐く言葉は、胸に突き刺さります。

 「彼に神の救いなどあるものか」

 「ダビデに勝ち目はない」というならまだしも、「ダビデに神の救いなどあるものか」とは、何という侮辱でしょうか。侮辱というよりも、敵対する者たちの高慢さを表しています。一体だれが神に成り代わって、「あの人には救いがない」などと断罪することが許されるでしょうか。しかし、敵対者たちは平然と「神の救い」について断言します。

 たとえ、その言葉が人間の口から出た言葉であったとしても、聞く側の心をくじく言葉であることには間違いありません。信仰すらも揺るがそうとする言葉です。

 ダビデの敵対者たちは、ただその兵力の優位さのために脅威だったのではなく、ダビデの信仰心を揺るがそうとする点でも脅威でした。

 自分を取り囲む敵の数が増大する中で、敵の口から「もはやお前は神からも見捨てられたのだ」と揺さぶられるなら、誰でも平常心を保つことは難しいでしょう。相手に希望を失わせること、これは物理的な武器よりももっと効果的かもしれません。

 しかし。ダビデ王は自分を奮い立たせて、敵のこの戦略に向き合います。ダビデは言います。

 「主よ、それでもあなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。」

 これは信仰者が持っているゆるぎない確信です。神の恵みと憐れみを味った者だけが持ちうる確信です。もし、神の救いや恵みが、人間の力や功績に依存するのであれば、自分の力が衰えるときに、救いも恵みも失ってしまうとうろたえる他はありません。

 しかし、とるに足りない者に目をかけてくださり、余りある恵みを与えてくださる神を知る者にとって、神は変わることなく恵みと憐れみに富んだ神なのです。たとえ現実が自分の行く手を阻んでいるように見えても、それでも、神はわたしの救いでいてくださると、確信をもって信じ続けることができます。神はわたしがどんな状況にあっても、わたしを守ってくださる盾です。わたしが栄光なのではなく、神ご自身がわたしの栄光です。この行き詰った状況の中で、うなだれるはずのわたしの頭を高く挙げてくださるお方です。

 そうであればこそ、主なる神が必ず答えてくださると、ダビデはその確信をはばかることなく告白します。

 「主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えてくださいます」

 この祈りは、多くの敵が取り囲む中で、ダビデに平安な心を与えます。

 「身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。」

 眠りにつくということ、そして、目覚めるということ、これほど日常的なことはありません。しかし、この日常的なことが出来なくなるほど、わたしたちは不安に打ちのめされてしまうことがあります。眠ろうとしても眠ることができない。目覚めなくても良い時に、そこはかとない感情に支配されて目が覚めてしまう。これがわたしたちの現実です。

 ダビデに信仰がなければ、たちどころにまともな睡眠もとれず、体もあっというまに衰弱していったことでしょう。しかし、ダビデはそうではありませんでした。「主が支えてくださる」という単純で明快な確信によって、心の平安を保ちます。

 普段、人は自分が自分を支えていると錯覚しています。ことがうまく運んでいるときは、それが自信ともなります。しかし、一旦それが崩れ、逆境に直面するときに、頼りと思っていた自分が実は頼りない存在であることを知ることになります。

 しかし、ダビデは信仰の歩みの中で、主である神こそが自分を支えることのできるお方であることを学んできました。その確信が心に平安をもたらします。自分が頼りなのではなく、神こそが頼ることができるお方であることを知ることは、わたしたち信仰者の希望であり、慰めであり、力です。

 この確信は、逆境の中にあるときに力となります。しかし、この確信は、物事がうまく運んでいるときにこそ培われていくべき確信です。順調な時に支えてくださる神が、逆境の中にいるわたしをも支えてくださるのです。

 イエス・キリストによって贖われた今は、なおのこと神がわたしの支えとなってくださり、生きるときも死ぬときもわたしを離れることがないのです。

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