聖書を開こう 2023年2月23日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  どんな境遇の中でも(フィリピ4:10-13)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 先輩の牧師たちとざっくばらんにお話をしていると、必ず昔の苦労話を聞かされます。特に戦中や戦後間もない時代にキリスト教に対する偏見や貧しさの中で伝道に取り組んできた先輩牧師たちの苦労は、戦後生まれのわたしには想像もできないほどのものです。そして、その話の結末は、いつも決まって、今の牧師たちは随分贅沢になってきたものだと言うものです。

 けれども、最近の牧師たちが、もはや貧しさや不足の中で暮らしていけなくなっているのかというと、そんなことはありません。豊かさの中にあっても、貧しさの中にあっても、満ち足りた思いで生きていく術を身につけているものと思います。実際のところ、都会の大教会は別として、地方の貧しい教会で働く牧師たちは、決して裕福とは言えません。

 わたしたちの大先輩であるパウロは、いついかなる場合にも対処する秘訣を心得た人でした。牧師に限らずクリスチャン一人一人がこのような生き方を学ぶ必要を覚えます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章10節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

 パウロがフィリピの信徒に宛てて手紙を書いた執筆の目的はいくつか考えられますが、その一つは、フィリピ教会から送られてきた支援の物資に対する感謝を表すためでした。

 すでに、この手紙の2章の25節以下に、フィリピの教会から遣わされてきたエパフロディトのことが記されていました。残念なことに、彼はパウロのもとに来ている間に、重い病気にかかってしまいました。この手紙をパウロがしたためている頃には、もうすっかり病からも回復して、おそらくは、この手紙と共にフィリピへと戻る予定だったのでしょう。フィリピの教会の人たちはこのエパフロディトに自分たちの贈り物を託してパウロのもとへと遣わしていました。

 ところで、先ほどお読みした部分は、そうしたフィリピの教会員たちの心遣いに対する感謝の気持ちを言い表した個所なのですが、素直な感謝なのか、それともパウロはそのようなフィリピ教会の心遣いを遠慮しているのか、ややもするとわかりにくい個所のように思われます。というのも、先ほどお読みしました個所には「感謝」を表す言葉が一度も使われていないからです。きょうの個所に続く個所でも、やはり「感謝」の言葉は見受けられません。そのために、この個所は「感謝なき感謝」などと呼ばれて来ました。ただ、はっきりとしていることは、きょうの個所の冒頭部分でパウロが述べているように、フィリピの教会員たちがパウロへの心遣いを再び表したことを、パウロは主において非常に喜んでいるということです。

 問題は、パウロはそのようなフィリピの人たちの心遣いをどのようなものとして受け止め、それを喜んだのかと言うことです。その点に関しては、来週取り上げる予定の個所に詳しく記されていますので、来週また取り上げることにします。

 パウロはいずれにしても先ずフィリピの教会員たちの好意に喜びをあらわしていると言うことです。と同時にその喜びがフィリピの教会の人たちに誤解を与えないように、とても気を遣った書き方をしています。

 というのも、手紙を読む限り、フィリピの教会からこのような形で贈り物が送られてくるのは、久しぶりのことであったからです。もちろん、来週学ぶ個所から明らかなように、ヨーロッパ伝道に向かうパウロをこのような形で絶えず支援してきた教会はフィリピをおいてほかにはありませんでした。しかも、一度ならず何度も支援を送り届けることでパウロを支えてきました。

しかし、今回の支援はある程度期間を置いてのものでした。それだけに、パウロの喜びはいっそう大きかったものと思われます。しかし、その喜びを素直に表現すれば、次の贈り物を期待しているようにも受け取られかねません。パウロはそうした無用な気遣いをフィリピの人たちに与えないために、言葉を選んで筆を進めています。

 先ずパウロは、フィリピの人たちがパウロのことを思う、その心遣いそのものを喜びますが、送られてきた物資そのものがパウロを喜ばせているのではないことをはっきりさせます。もちろん、フィリピの教会の贈り物は役に立たない無用の長物では決してなかったはずです。それは、パウロの伝道を助けるのに大いに役に立ったことでしょう。

 しかしパウロは「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と述べます。足りないならば、足りないなりに、豊かに与えられたなら、豊かに与えられたなりに、その中で満足する生き方を身につけているというのです。物の豊かさや不足によって振り回される生き方ではなく、今を良しとして、今の境遇に満ち足りた思いを持つ術を習得したのです。

 人間が豊かさを求める心には留まるところがありません。今よりも良いものをいくらでも求めてしまいがちです。少しでも良いものを得ることができれば、さらに良いものを望みます。さらに良いものが手に入れば、もっと良いものを手に入れたくなるのです。そして、一旦それを手に入れたならば、もはやそれ以下になることに堪えられなってしまうこともあります。そこに留まることも、そこから戻ることも望まないのです。

 もし、パウロが教会からの支援の贈り物を、そのような気持ちで期待したとしたらならば、たちどころにフィリピの教会との関係は破綻してしまいます。そんな誤解を与えないためにも、パウロは「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と述べています。

 パウロがそのような生き方を、どのようにして身に付けたのでしょうか。パウロは言います。

 「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」

 もし、主なる神への信頼がなければ、人はたちどころに不安のどん底に落ちていってしまうものです。必要なものは神によってすべて備えられていると、今の境遇を思うこと、そのような神の支えがあることを身近に感じることの大切さを思います。

 神への心からの信頼こそが、いついかなる場合にも対処する秘訣なのです。

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