聖書を開こう 2023年2月2日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  同じ思いで協力を(フィリピ4:2-3)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ライバル意識をもつということは、物事が発展していく上でとても役に立つことが多くあります。競争社会とそうでない社会を比べた時にその差は歴然としたものがあります。

 では、教会の中でライバル意識をもつことは大切かと言うと、必ずしもよい結果にならないことの方が多いように思います。というのは、一人一人のクリスチャンは、キリストの体である教会を有機的に構成する要素なのですから、競い合うと言うよりは、協力して一つの体に造り上げるということに力を注ぐ方が有益だからです。

 しかし、お互いに切磋琢磨しあって、よりよい教会、よりよいクリスチャンとして成長していくと言う意味では、競い合ったり刺激しあったりすることも有益です。

 そうはいっても、協力と競争を丁度良い塩梅に保つことはなかなか難しいものがあります。これからお読みする個所は、フィリピ教会の有力な二人の婦人に関わる問題を取り上げた個所です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章2節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」

 今お読みした個所は、パウロが書いた手紙の中でも、かなり珍しい個所と言うことができます。フィレモンに宛てた手紙のように、個人宛ての手紙ならばいざ知らず、教会へ宛てた手紙の中で、特定の個人の名前を挙げて、その人に対してこうして欲しい、ああして欲しいと勧告の言葉を述べる例はほとんどないからです。ここれは余程のことと思わなければならない個所です。

 それから、この個所は、初代のキリスト教会で女性たちがどういう立場に置かれていたのかを伝えている点でも、貴重な個所と言うことができます。

 キリスト教会では、その時代には珍しく、女性の働きに対する言及はあちこちに見られます。例えば、使徒言行録には、タビタや(9:36以下)、プリスキラ(18以下)といった女性たちの働きが記されています。ローマの信徒への手紙の16章にもフェべを初めとして幾人かの女性の働きが言及されています。また、使徒言行録によればフィリピ教会の最初の受洗者は紫布を扱うリディアという女性でしたから(使徒16)、この教会の中で女性たちがどのような地位を占めていたのかは興味のあるところです。

 今日取り上げた個所で、パウロは二人の婦人の名前を挙げて勧告をしています。その名前は、一人はエボディア、もう一人の名前はシンティケです。この二人がどういう人物だったのかは、他の個所には登場しませんから詳しいことはわかりません。ただ、後で見るように、福音のためにパウロと共に戦ってくれた婦人たちでした。

 その二人に対して、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」とパウロは記します。その勧めの内容は、「主において同じ思いを抱きなさい」と言うものです。これと同じような勧めの言葉は、既に2章の2節にも出て来ました。では、この二人は揃って、フィリピの教会の一致から外れてしまったと言うことなのでしょうか。つまり、パウロはこの二人に呼びかけて、フィリピ教会のみんなと同じ思いになることを勧めているのでしょうか。

 そうではなく、おそらくパウロが言いたかったことは、この二人のライバル意識からくる一致のなさを懸念してのことだったのでしょう。同じ思いを抱くようにとの勧めの言葉は、まず第一に、この二人の婦人たちの間で一致した思いになって欲しいと言うパウロの願いだったに違いありません。そうであればこそ、わざわざ、「エボディアに勧める」と述べた後で、同様に「シンティケにも勧める」と述べて、どちらか一方に対する勧告ではなく、二人に対して公平に勧告の言葉を述べているのでしょう。

 このことは、パウロがこの手紙の2章で取り上げたことと重ねて読むときに、いっそう明らかになります。

 2章ではパウロは具体的な名前は明らかにしませんでしたが、フィリピの教会にある不一致を懸念していました。そこで、パウロはフィリピの教会に対して「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:2)と勧めています。さらに、その不一致の原因として、へりくだりの思いが欠けていること、相手よりも自分の方が優れていると思う間違ったライバル意識、虚栄心、そういったことを原因として挙げました。

 実はこのことは具体的にはエボディアとシンティケの間でもっとも顕著に表れていたのでしょう。

 ただ、これが個人的な小さな対立であれば、パウロは教会宛ての手紙の中にわざわざ二人の名前を挙げてまで、取り上げることはなかったでしょう。問題は、この二人が、フィリピの教会で占める重要な立場のためであると考えられます。

 パウロはこの二人のことを「命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」と記しています。この二人がフィリピ教会の発展のために尽くした働きはとても大きかったことが伺われます。影響力が大きい二人だけに、パウロはこの二人の間の対立を教会全体の問題として位置付けていたのでしょう。そうであれば、敢えて、教会宛ての手紙に二人の個人的な名前を明らかにして、一致を訴えたに違いありません。

 今までの学びからも明らかなように、フィリピの教会は福音に敵対する者たちの脅威を少なからず受けています。そういうときにこそ、教会内部の分裂や不一致が後に大きな痛手となりかねません。かつてこの二人はパウロと共に福音の進展のために戦った人たちであり、パウロの協力者だった人たちです。今一度、福音宣教の力強い協力者として、ともに教会を建て上げるために力を注いで欲しいとパウロはこの二人に期待していたことでしょう。

 パウロはこの二人が同じ思いを抱くことができるようにと、「真実な協力者」に対して、手助けを求めています。

 翻訳聖書によっては「協力者」と訳されている「シュスゴス」という言葉を一般名詞ではなく、人の名前と理解してそのまま「シュスゴス」と音訳している聖書もあります。ただ人名に「真実な」という修飾語を付けるのは不自然ですから、ここでは「協力者」と一般名詞でしょう。

 この「真実な協力者」が具体的に誰をさしているのかはわかりません。この手紙を受け取ったフィリピの教会員には明らかだったのかもしれません。あるいは、逆にフィリピの教会員たちにもわからなかったのかもしれません。そうであれば一人一人が「真実な協力者」として二人の婦人を支えるようにと自覚を促されたのかもしれません。こうして、一人ひとりが真実な協力者として、一致した思いで協力し、教会を建て上げていくことの素晴らしさを学んだに違いありません。

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