メッセージ: キリストを知ることのすばらしさ(フィリピ3:7-11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「価値観」や「人生観」という言葉は、とても堅苦しい響きを持っているように思われます。また、そういうものを持っていることが、かえって対立を生み出し、争いのもととなるからという理由で、価値観や人生観について考えることを避けて通っている人もいます。
しかし、何の価値観も持たず、何の人生観も持たないで生きている人は、実は誰もいません。それを自覚しているか、それとも漠然と持っているかの違いはありますが、皆、何らかの人生観や価値観を持って生きています。何か判断を迫られる時には、皆、この価値観や人生観が顔を覗かせます。その人が何を大事にして生きているのか、そのときにはっきりと分かってきます。
今学んでいるフィリピの信徒への手紙を書いたパウロは、復活のキリストとの出会いを通して、180度、価値観が変わってしまいました。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
フィリピの信徒への手紙は、3章に入ると、とても激しく情熱的な文章が目立ちます。きょうお読みした個所も、正にパウロの実存のすべてがかかっているような、そんな激しさを感じます。
今、パウロはフィリピの教会を取り巻く福音の敵対者たちを念頭にこの手紙を書いています。彼らは切り傷に過ぎない割礼を誇りとし、それをフィリピの教会の信徒たちにも強要しようとしているのでしょう。当然、パウロはこのような教えに断固と反対します。それは、キリストが勝ち取ってくださった義を無にしてしまうからです。
前回取り上げた個所にもあるとおり、パウロにも、誇ろうと思えばいくらでも誇れるだけの優れた点がありました。それは福音の敵対者たちさえも認めざるを得ないほどの優れたものです。パウロはかつての自分をこう述べています。
「わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」
これはウソ偽りのないパウロの経歴です。もし、これらのことが救いの条件に合致しているとすれば、パウロは誰よりも救いに近い人物として自分を誇ることが出来たでしょう。
そして、何よりもパウロがかつての自分について誇りとしてここで挙げているものは、どれもイスラエル民族に特有のものです。ここで明らかなのは、パウロの敵対者たちは、そうしたものを誇りと思い、それらが救いに結びつく大切な要素とでも思っていたのでしょう。
「しかし」…「しかし」とパウロは言葉を繋げます。
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」
確かにキリストと出会う前のパウロにとっては、これらの事柄はどの一つをとっても救いにとって有利なものと思われていました。それこそ、かつてのパウロにはこれらのことが心の支えとなったことでしょう。しかし、キリストに出会った今は、それらのことが「損失」だとさえ思うようになったのです。
「あってもなくてもいいもの」なのではなく十把ひとからげに「損失」だと言い切っています。益にも害にもならないものなのではなく、明らかに救いにとってマイナスの要素だと悟ったのです。
このようにパウロの価値観を180度変えてしまったのは「キリストのゆえ」であるとパウロは述べています。「キリストのゆえ」という一言が、具体的に何をさしているのかパウロは述べてはいませんが、しかし、ダマスコへ向かう途上で復活のキリストと出会った事件に始まっていることは間違いありません。パウロにとってのこのような価値の大転換はキリストと深く結びついています。そういう意味で、福音に敵対する者たちの主張は、キリスト教の根幹に関わる重大な問題なのです。どうでもよいような問題では決してありません。
パウロはさらに言葉を進めて、過去の自分の経歴ばかりでなく、「一切のこと」をも損失とみなしていると述べます。いえ、「塵あくたにすぎない」とさえ感じているのです。パウロにとってはキリストを知ることはあらゆるものを超えて素晴らしいことなのです。
キリストのゆえに一切を失ったとパウロは言いますが、それはキリストを得るためであるとも述べています。それは裏を返せば、一切のものを得ようとするときに、それだけキリストを失うことでもあるのです。パウロの目から見て、福音の敵対者たちの危険は正にこの点にあったということが出来ます。一切のものもキリストも両方を得ることは出来ないのです。律法を行うことで得られる義とキリストが与える義を両立できるかのように考えるところに落とし穴があるのです。
パウロが言う「キリストを知る素晴らしさ」とは、結局のところ、キリストが自ら勝ち取って、信じる者たちに与えてくださる義を知ることに他なりません。そして、このキリストが与えてくださる義のあるところに、将来の復活の望みもあるのです。神が永遠であられるように、その神と共に歩むためには、わたしたちも永遠の命に生かされなければなりません。キリストの復活を通して朽ちることのない復活の体に生かされるとき、永遠の神と共に歩み希望が保証されるのです。
それらの望みは、かつてパウロが抱いていた誇りによっては、手に入れることができない望みだったのです。
肉を誇ろうとする者、律法から生じる自分の義を頼みとする者は、結局のところ神の恵みを無にしてしまうことにほかなりません。そして、パウロの生き方の中心は、このキリストを通して与えられる神の恵みに生きること、このこと以外にはありえません。福音に生きるとはこの神の恵みに生きることなのです。