メッセージ: 自分を頼る者たちへの警戒(フィリピ3:1-6)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人間の自然な気持ちの中に、何かを誇りに思うという気持ちがあります。「誇り」という感情そのものは、ただそれだけでは、良いとも悪いとも言いがたいものです。何を誇りと思い、それをどう誇るかによっては、鼻が高い高慢な生き方にもなれば、謙虚でつつしみ深い生き方にもなります。
たとえば、自分の財力を誇りに思い、経済的に力のない者たちを軽んじるとすれば、それは傲慢な生き方になってしまいます。同じ財力を誇るにしても、それを神からの恵みと受け止め、社会に還元していく生き方をするのであれば、謙虚でつつましい生き方になるでしょう。
救いと言うことを考える時にも、この「誇り」というものがどう働くかによって、真の救いに近づきもすれば、逆にどんどん遠ざかってしまうこともあります。
きょうこれから取り上げようとしている個所では、聖書が教える真の救いから、かえって遠ざかってしまうような誇りを抱いている人々のことが取り上げられます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 3章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
今週からフィリピの信徒への手紙の学びも3章に入ります。3章に入った途端、今まで学んできた手紙とは同じものとは思えないほどに、手紙のテーマも雰囲気も一変してしまいます。フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれるほどに、あちこちに「喜び」という言葉が登場しますが、3章に入った途端、初めに一度だけ出てきたきりで、次の4章まで「喜び」と言う言葉は顔を出しません。「喜び」という単語が出てこないと言うばかりではなく、今までの穏やかな感じの手紙の書き方とは一変して、なんだかパウロは荒々しい口調で手紙を綴り始めます。
「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」
「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」…三重の警告が発せられています。日本語の訳では言葉が重複しないように訳語を変えいますが、ギリシア語では同じ言葉が三度繰り返されます。こんなにも繰り返し注意するようにといわれているのは、福音の恵みに背く教えに染まっている人たちがいたからです。その人々のことをパウロは「あの犬ども」「よこしまな働き手」「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と言葉を変えて呼んでいます。
「犬」と言うのはユダヤの世界では決してよいイメージの動物ではありません。主人に従う忠実な犬のイメージではなく、聖なるものをまったく理解できないことの例えに使われる動物です。「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」という諺さえあるほどです(2ペトロ2:22)
「働き手」という言い方も、一見、良い意味の言葉のように思えるかも知れません。確かにパウロは福音を宣べ伝える働き人のことを「同志」とか「協力者」とか(2コリント8:23他)、「戦友」(フィレモン2)などと呼びますが、「働き手」(エルガテース)と言う呼び方はしません。もちろん、この「働き手」という言葉自体には悪い意味はありませんが、パウロが用いる時にはここでのように「よこしまな働き手」とか「ずる賢い働き手」(2コリント11:13)など、悪い意味での修飾語がいつも付け加えられています。確かにパウロが「注意せよ」と言っている人々は「働き手」なのには違いありません。しかも本人たちは神に仕える熱心な働き手と思い込んでいる人々なのでしょう。しかし、パウロの目から見れば、彼らは「よこしまな働き手」に過ぎないのです。
さらに、パウロは彼らのことを「切り傷にすぎない割礼を持つ者」と呼んでいます。この言葉は「カタトメー」という単語ですが、「割礼」を表す「ペリトメー」と言う単語をパウロはわざとひねっています。
どうやらここでパウロが問題にしている人々は、割礼のあるなしにこだわる教えの人たちなのでしょう。しかし、パウロから見れば、彼らの割礼(ペリトメー)は、ただの切り傷(カタトメー)に過ぎないのです。
では、パウロは神の民の契約のしるしである割礼を軽んじているのかと言うと、決してそうなのではありません。パウロが問題にしているのは肉の割礼ではなく、霊的な真の割礼です。パウロは「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」自分たちこそが、本当の割礼を受けたものであると述べます。
ここでパウロが問題にしている人々が一体どんなグループの人たちなのか、フィリピの教会とどんな関係にあるのか、具体的に詳しくは分かりませんが、少なくとも彼らがユダヤ教の影響をいまだに受けている人たちであり、パウロが宣べ伝えている福音とは明らかに異質の教えをフィリピの教会に持ち込もうとしている人たちであることは間違いありません。
真の福音を信じる者たちが、イエス・キリストを誇りとする生き方に対して、この人々は肉に頼り、肉を誇りとする人々なのです。肉を誇り、肉を頼みとするというのは、この場合、イスラエル民族であるということの誇りと深く結びついています。そういう意味での誇りなら、パウロには掃いて捨てるほどありました。
もちろん、この人々が説いていた教えは、「ユダヤ人でなければ救われない」という教えではなかったでしょう。そうであれば、異邦人がほとんどを占めるフィリピの教会では、そのような教えは少しも受け入れられる危険性はなかったはずです。むしろ、彼らの説いていたことは、割礼を受けることでユダヤ人と同じようになれる、いえ、そうすることで二流のクリスチャンではなく、一流のクリスチャンになれるとでも説いていたのでしょう。
もちろん、現代のクリスチャンは再びこのような教えに惑わされることはないでしょう。しかし、キリストに対する信仰だけでは不完全で、そこに何かプラスアルファをしなければ完全なクリスチャンになれないと考えてしまう危険は、今も変わりはありません。それこそ福音の恵みを無にするものです。確かにこの地上にある限り、完全なクリスチャンはいません。しかし、クリスチャンはキリストの恵みによって神の御前に受け入れられ、キリストの恵みによって確実に完成へと向かって歩んでいるのです。このキリストの福音の恵みに生かされることこそ大切なのです。
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