【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
「教会」という言葉を聞くと、ほとんどの人は、「キリスト教会」を思い浮かべると思います。それは大変光栄なことです。しかし、日本国内の地図で「教会」を検索すると、他の宗教の教会もヒットします。
キリスト教会が「キリスト」の名前を冠しているのは、ただ、他の宗教の教会と自分たちとを区別するためではありません。自分自身の存在が、イエス・キリストと深く結びついているからです。英語では「教会」のことを「church」と呼びますが、churchの語源は、ギリシア語の「主のもの」を意味する「キューリアケー」から来ています。「主」とは、言うまでもなく、「主イエス・キリスト」のことです。自分たちが主イエス・キリストのものである、そういう共同体であることを意識した命名です。
さて、今月31日は、16世紀のヨーロッパで起こった宗教改革を記念する日です。その宗教改革運動を特徴づける五つのモットーがあります。そのひとつが、「キリストを通してのみ」という言葉で言い表されています。今までお話してきた「信仰によってのみ」という主張も、「恵みによってのみ」という主張も、誰に対する信仰でもよい、誰の恵みを通してでもよい、という話ではありません。「鰯の頭も信心から」という言葉がありますが、さすがに鰯の頭でも有難く信じれば、救いがもたらされるわけではありません。
しかし、そんな当たり前のことをわざわざモットーのひとつに加えるのは、奇妙に感じられるかもしれません。それは、当時のキリスト教会の事情と深く結びついています。ヨーロッパの教会には、聖人の名前や天使の名前を冠した教会がたくさんあります。例えば、聖ペトロ教会や聖パウロ教会、あるいは聖ミカエル教会などなどです。そのことが物語っているように、当時のキリスト教会では、聖人や天使は、仲介者や保護者としての重要な役割を担っていました。果たして、そうした役割は、本当に聖書の教えに合致しているのでしょうか。宗教改革運動は、キリストだけが私たちの仲保者であり、キリストだけがわたしたちに救いをもたらしてくださるお方であることを、再び明確にしました。
では、今の時代に「キリストを通してのみ」という主張は、定着した常識となってしまったのでしょうか。言葉としては、確かにそうかもしれません。新約聖書の中にある手紙のほとんどを書いたパウロは、キリスト教への回心を明確に体験した人でした。そのパウロは、手紙の中で、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)と述べています。その同じ手紙の中でパウロは、こうも述べています。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。…わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13)
「キリストを通してのみ」という確信に立って生きるということは、まさにそういうことなのだ、ということを考えさせられます。「キリストのみ」と言いながら、別な安心を用意したり、「キリストを知るすばらしさ」の実感が色褪せているとしたら、「キリストを通してのみ」という宗教改革の主張は、まさに、今の時代を生きるわたしたちにも必要なモットーということができるのではないでしょうか。