キリストへの時間 2023年10月15日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 恵みによってのみ

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 「恵」という女の子の名前は、昔からよく使われています。過去の名前ランキングで調べても、結構な頻度でベストテン入りしています。聖書の世界では、この「恵み」という言葉は、神と結びついた言葉で、神は恵みに富んだお方として描かれ、人に恵みをお与えになるお方です。また人は、この神の恵みに生かされ、神の恵みに生きる者とされています。

 今月は、16世紀に起こった宗教改革を記念してお話をしていますが、宗教改革の主張点のひとつに、「恵みによってのみ」という言葉があります。人が救われるのは、行いによってではなく、恵みによってだけ、という主張です。これは、宗教改革者たちが新しく生み出した主張ではありません。聖書自身が、救いは神から与えられる恵みであることをいろいろなところで語っています。その聖書の真理を再発見したのが、宗教改革運動を推し進めていく原動力でした。

 それにしても、そんなにも聖書がはっきりと語っていることを、なぜ気が付かないままで放置されていたのでしょうか。「はっきりと」とは言いましたが、聖書の読み方によっては、善い行いが救いをもたらすように書かれているようにも読めます。それに、恵みによってだけ救われるということを強調しすぎると、誰も真面目に生きようと努力しなくなるのではないか、という懸念も起こります。そうしたことがなんとなくバイアスとなって、救いが全くの恵みであることが薄れていってしまったのではないかと思われます。

 実際に、私自身の経験では、キリスト教に関心のある人と話していても、この「恵みによってだけ救われる」というキリスト教の主張が、どうしても腑に落ちないという人に出会う頻度は少なくありません。特に、真面目で勤勉な日本人にはそうなのかもしれません。ただで恵みを頂くなど、畏れ多いと思ってしまうのかもしれません。もっとも、鎌倉仏教のひとつ、浄土真宗を開いた親鸞の教えは、本人の行いにかかわらず、念仏を唱えるだけで極楽浄土の救いにあずかると説いていますから、日本人だから、救いが恵みであるとする教えに抵抗感があるわけではないと思われます。

 そもそも、キリスト教会ではなぜ、救いが行いによってではなく、神の恵みによって与えられることを強調しているのでしょうか。そこには、聖書の教える人間観が深く関係しています。もし人間が、神の目にかなうような善をなす力があるとすれば、確かに、救いは行いによって勝ち取ることができそうです。しかし、聖書の教えでは、アダムの堕落を引き継ぐ人間、それは一人として例外のない全人類のことですが、誰一人として、神の目にかなう善など果たせる者はいない、ということです。そうであるからこそ、人間には救いが必要であるとも言えるのです。

 この無力な自分に気が付き、すべてを神に委ねて救いを求めることが大切です。まだ自分の手でなんとかなると思っているうちは、神の恵みによってのみ救われる、という教えは、不要な教えのように感じられても仕方ありません。宗教改革者の一人、ルター自身もそうでしたが、徹底的に自分の無力さにうちのめされ、絶望を感じることができた者だけが、恵みによる救いの教えの有難さを身に染みて味わうことができるのです。

 聖書のことば「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」エフェソの信徒への手紙2章5節



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