【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
現代のネット社会時代には、情報があふれかえっていると言われています。その情報量は、現代人の1日分が江戸時代の人の1年分、平安時代の人々の情報量の一生分だといわれています。わたしたちが接している情報の困った点は、その量が膨大だというばかりではなく、それが正しい情報であるのか、そうでないのか、ほとんどの人がそれを厳密に調べることもせずに、信じてしまうことです。実は、さきほどの現代人の情報量に関する記述も、ネットから安易に拾ってきたものです。インターネットのあちこちに転がっていて、果たしてそれが正しい情報なのか批判することもなく、拡散されていることがよくわかります。
江戸時代と言っても、1600年代はじめの江戸時代と、1800年代半ばを過ぎた幕末の頃とでは、当然情報量も違います。江戸や大阪に住んでいる人と、地方で暮らしている人とでは、当然触れる情報量も違います。大名と庶民とでも、情報量は違うでしょう。一体何を根拠に1年分の情報を計算したのでしょうか。平安時代の一生分の情報量ともなると、もっと怪しくなります。そもそも、平安時代の庶民の一生がどれぐらいの長さであったのか分からないのに、一生分だと聞いて分かったような気になっています。そういうことを疑いもせずに、ネットの書き込みを本当に簡単に信じ込んでしまう時代です。情報量が多いわりに、真理に触れる機会は、それほどでもないのが現代です。
実は、こんなことをお話しするのは、「聖書によってのみ」と主張する宗教改革運動の主張のひとつを、現代に生きるわたしたちにとっても、意味のあることとして語りたいと思ったからです。先週から、16世紀にヨーロッパで起こった宗教改革運動の話をしています。その運動の主張を表したモットーの一つに、「聖書によってのみ」という言葉があります。自分の信じていることの正しさが、一体どこから来るのか、これは、キリスト教会だけの問題ではありません。真摯に生きようと願う人にとって、時代や地域を超えて、大切な問題です。情報がたくさんあるから正しい答えにたどり着くとは限らないことは、先ほど見た通りです。
宗教改革運動の口火を切ったのは、マルティン・ルターだと言われていますが、ルター本人は、自分が抱いた疑問が、ここまで当時の教会を揺るがすような大きな運動となるとは、最初から思ってはいなかったでしょう。キリスト教会の教えの正しさはどこから来るのか、自分の主張に間違いがあるとすれば、何によって正されるべきなのか、ルターは命を懸けて真理を探求した人でした。
そのマルティン・ルターが、1521年に開かれた帝国会議で、異端者として教会から破門を宣告されたとき残した有名な言葉があります。それは、聖書によって自分の誤りを指摘されるのでなければ、自分の主張してきた考えを撤回することはできない、という断固とした言葉でした。以来、聖書に立って真理を究め、聖書だけが自分の良心をただすができると考えたのが、宗教改革者たちの生き方でした。
果たして、現代に生きるわたしたちは、宗教改革運動を指導してきた人たちよりも、もっと自由に真理に接し、自分自身をあらゆる迷信から解放して生きているでしょうか。あるいは、自分をただして、正しい生き方へと導く揺るぎのない基準を持っているでしょうか。便利な情報社会が、かえって人々の心を束縛していないか、問うてみる必要があるように感じます。