【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
今月10月31日は、「宗教改革記念日」です。1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、マルティン・ルターは、『95か条の提題』を掲げました。「宗教改革記念日」は、そのことに由来しています。その宗教改革運動の主張を簡潔に言い表したモットーに、五つの「のみ」という言葉があります。そこで今月は、この宗教改革の中心的な主張を表した五つのモットーについて、毎週一つずつ取り上げていきたいと思います。
今日取り上げるのは、「信仰によってのみ」という主張です。いきなり「信仰」といわれても、自分には関係ない、と思われるかもしれません。しかし、宗教改革運動が抱えていた問題は、決してキリスト教とキリスト教徒にだけ意味のある問題ではありません。確かに、「信仰」や「救い」と言われると、おおよそ自分には関係ないことのように感じてしまうのも無理はありません。しかし、「救い」という言葉を、「心の不安からの解放」と言い換えれば、もう少し身近な問題として受け止めることができるでしょう。
心の不安というのは、どの時代のどんな地域の人間にも共通して存在する問題です。医療や科学がどんなに進歩しても、また経済がどんなに豊かになっても、心の不安は、それに反比例して減っていくわけではありません。いったいこの問題から人はどうやって解放されるのでしょうか。満足な暮らしや生き方が、不安を解消してくれるでしょうか。確かに、「満足」を何によって得るのかによっては、そうかもしれません。そして、それを自分で獲得するのか、誰かが与えてくれるのを受け取るのか、そこにも大きな違いがあります。
宗教改革運動が起こったその当時、この不安の中心は、自分がこの世を去るとき、果たして神に受け入れられるのか、という不安です。当時のキリスト教会では、天国に直行できるのは、限られた聖人だけでした。そうでない人たちは、一旦「煉獄」と呼ばれるところで、自分の罪を浄化しなければならないと教えられました。煉獄は、決して気楽な場所ではありません。その期間が長いのか、短いのか、不安で仕方ありません。それなら、地上にいるときに善行に励めばよいのは分かっていても、そうなれないのが人間の弱さです。この地上での生活に追われ、あっという間に人生の終わりが近づいてきたときには、何かをするだけの力すら残っていません。では、若い時から善行に励めば、この不安から解放されるのでしょうか。
宗教改革の口火を切ったルターは、真面目な修道士として、教会が教える善行に励んでいました。真面目であるだけに、徹底して自分を律して生きようとしました。しかし、どんなに励んだとしても、自分の心に平和は訪れませんでした。これは単に、ルターの個人的な体験なのではありません。聖書自身が、人間の罪深い性質は、そんなに簡単に何とかなるものではないことを教えているとおりです。結局、善い行いによって神の義を満足させることなど、人間にはできません。
大切なのは、そういう無力な自分に気が付き、真の解放をもたらしてくださるキリストの恵みを、信仰という器で受け取ることだというのです。これこそが、神の御前に義人として受け入れられる道だと発見したのです。それは、信仰を通してだけ与えられる救い、信仰を通してだけ得ることができる平安です。
何によって心の不安から解放されるのか、これは現代を生きるわたしたちにも問われている大きな問題です。そういう意味で、宗教改革者たちが掲げた「信仰によってのみ」という主張は、今の時代にも色褪せることがない重要なテーマなのです。