【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
キリスト教のお葬式のときに読まれる聖書の言葉の一つに、ヨハネの黙示録21章3節と4節の御言葉があります。そこにはこう記されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
ここには、神自らが人の目から涙を拭い取ってくださると約束されています。そればかりか、救いが完成した世界は、涙する原因そのものが取り去られる世界です。感動や感激の涙はあっても、悲しみや嘆きから来る涙はありません。はたして、悲しみや嘆きには意味がないのでしょうか。そうではありません。
この地上にあっては、悲しみや嘆きから来る涙にも意味があります。しかし、その涙は諸刃の剣です。というのも、人は苦しみからさえ学ぶことができる反面、その苦しみに押しつぶされてしまい、この世を恨み、自分自身の人生に何も期待しなくなってしまうこともあるからです。悲しみや苦しみから学び、人生を歩み続ける人は幸いです。とりわけ、この世に絶え間なく襲い掛かる苦しみや悲しみの中に、人間の罪から来る非業さを知り、まことの神に救いを求めていっそう寄り頼む人は幸いです。しかし、苦しみや悲しみに意味があるのは、あくまでも、この地上での話です。
黙示録の中で語られているのは、救いが完成した世界の話です。神を信じて忍耐し、救いの約束が成し遂げられることをひたすら待ち望んだ者たちの行きつく先の希望です。何よりも、救いが完成した世界で、悲しみや嘆き、労苦が取り去られるのは、神が自ら人と共にいて、その神となってくださるからです。もちろん、この地上にあっても、神は信じる者たちの神であり、世の終わりまでわたしたちと共にいてくださるお方です。しかし、救いが完成するときには、この地上にある時よりも、はるかに直接的で、はるかに身近にそれを感じ取ることができるのです。
ヨハネがこの黙示録を通して、この地上に生きる信仰者たちに、この希望について語っているのには、大きな意味がありました。というのも、キリスト教がローマ世界に広まり始めると共に、キリスト教に対する迫害も激しくなってきたからです。信仰のゆえに受ける迫害に、希望をもって立ち向かうことができるためでした。このヨハネが語る希望は、その時代の信仰者たちばかりではなく、その後の時代を生きる多くの信仰者たちを励ましてきました。
迫害とまではいかなくても、人生の中で起こる様々な悲しみ、痛み、労苦が、わたしたちの心を萎えさせ、生きる希望を見えにくくしています。そうであればこそ、聖書が与える希望に目を止めて生きることは大切です。希望がなければ、人は生きていくことができません。もちろん、小さな希望でも、人は元気を頂くことができます。
しかし、どうせ抱くのであれば、死を超えた希望でありたいと願います。死がすべての終わりであってはいけません。ヨハネが語る希望は、死さえも乗り越える希望です。この希望を確信をもって抱き続ける人だけが、どんな理不尽な苦しみの中にあっても、この地上での歩みを力強く歩み続けることができるのです。